2008年11月25日付 聖教新聞 11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ 下-1

2008年11月25日付 聖教新聞
11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ 下-1

断じて負けるな!苦労こそ宝!
人間として光れ!
近代日本文学を開いた尾崎紅葉「玉磨かざれば光りなし」 

一、私が、恩師・戸田城聖先生にお会いしたのは、19歳の時である。
 近代日本文学にも、数え19歳で、生涯の師匠との出会いを果たした文豪がいる。
 有名な泉鏡花である。師匠は、明治文壇の雄として名高い、尾崎紅葉であった。

 「人として尽すべき道がある」
 一、師弟はともに、学会本部のある信濃町にほど近い、東京・新宿の神楽坂界隈に住んでいたことでも知られる。
 紅葉は、代表作『金色夜叉』に記した。
 「およそ人と謂う者には、人として必ず尽すべき道がある」
 「人の道という者があるのだ」(『金色夜叉(下)』岩波文庫
 「人の道」──その真髄こそ「師弟の道」であろう。
 「紅葉と鏡花。この二人は文学史上、希有の師弟と謳われた。
 近代日本文学の新しい道を開いた尾崎紅葉
 戸田先生の故郷・北陸の石川で生まれた泉鏡花は、青春時代、紅葉の作品を読み、深い憧れを抱く。
 「我日本の東には尾崎紅葉先生とて、文豪のおわするぞ。と崇敬日に夜に止む能わず」(『鏡花全集第28巻』岩波書店。一部、現代表記に改め、漢字をひらがなにした=以下同じ)
 「先生のお顔が見られたら、まあ、どんなに嬉しかろう」(「紅葉先生」、『明治文学全集18 尾崎紅葉』所収、筑摩書房
 求道の思いやみがたく、ついに上京して、尾崎紅葉の門を叩いたのである。
 1891年(明治24年)の錦秋の10月19日のことであった。
 そして鏡花は、四六時中、師匠の傍らで薫陶を受けることになる。
 師匠・紅葉は「玉磨かざれば光無し」(『紅葉全集弟10巻』岩波書店)と綴った。
 訓練は験しかった。朝晩の掃除。多くの来客の対応。師の外出のお供......。
 行き届かないところは、厳しく叱責された。他の弟子がやった失敗に対してまで、「なぜ、互に注意をして未然に過失を防いでやらないか、お前は同門に冷淡だ」(前掲「紅葉先生」)と指摘された。
 真の弟子に対する鍛錬とは、そういうものだ。

 ふりがなを多く読者には謙虚に
 一、文章の薫陶も厳格であった。
 鏡花は、師・紅葉の原稿の口述筆記や清書もした。
 また紅葉は、弟子の文には、自ら直しを入れてくれた。
 弟子が自分の文章を、恐る恐る師のもとにお持ちする。すると「何だこれは」「もうちょっと書けそうなものだ」と一喝されることもあった。
 さらに師匠は、字を丁寧に書くように、ルビ(ふりがな)を多く、適切にふるように等の細かい点も、重ね重ね注意した。
 「小事に似たれど小事ならず 人たる者は万事にイケゾンザイ(=いいかげん)を慎むべき也」(『紅葉全集第12卷』岩波書店)と。
 印刷場で活字を組んでくれる人たちへの謙虚さ。
 読んでくれる読者への謙虚さ。
 それを叩き込んだのである。
 こうして、弟子は、人間としての振る舞い、文学者としての基本を学んでいった。
 一方、師匠をうまく利用して、わが身の栄達を得ようという心根の人間は、この薫陶に耐えられず、離れていった。
 泉鏡花は回想している。
 「自分の出世をする為の方便としたり或はその時限りの都合上で来たり、乃至自分の書いたものを早く活版にしたかったり、直ぐに原稿料を望んだようなものは、その(=先生の)お小言やその眼玉やに堪えなかったのです」(前掲『鏡花全集第28巻』)

 文は気合で習う
 一、愛弟子・鏡花にとっては、師の薫陶がすべてであった。
 師を心底から崇敬し、師のためなら水汲みでも何でもして働かせていただくという決心であった。見栄や体裁など、かなぐり捨てて仕えた。
 鏡花は、その心意気を、文章は「朱筆より気合で習う」(同)と表現していた。
 師弟といっても、弟子の一念で決まる。
 何より鏡花は、師・紅葉の厳愛の意味が、よくわかっていた。
 「(紅葉先生は)一旦その弟子達の世話を引き受けるとなったら、もう中途半端な事なんかして置かず徹底的にその者の一人前になるようにと仕込むのです」
 「厳格ではあったが、先生はよく可愛がって下すった」「何から何まで教えられた」(同)と。
 私には、戸田先生の薫陶と二重写しで、胸に迫る。
 朝から夜中まで、私の青春は「戸田先生をお護りする」──これが、すべてであった。
 先生の訓練は厳しかった。先生に呼ばれれば、いつでも、どこへでも飛んでいった。
 先生に託されたことは、どんな困難があろうと必ず実現した。
 先生も私を、亡くなられる間際まで、命がけで薫育してくださった。世界の知性と縦横無尽に対話できるだけの、最高の人間学を授けてくださった。
 これが創価の師弟なのである。

 師からの手紙
 一、さて、父を亡くし、いったん金沢に帰郷した鏡花が大変な貧窮に苦しんでいた時のことである。
生きる希望さえ失いかけていた弟子・鏡花を、師・紅葉が敵ました手紙が残っている。
 「大詩人たるものはその脳 金剛石(=ダイヤモンド)の如く、火に焼けず、水に溺れず刃も入る能わず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ況や一飯の飢をや」
 「汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至宝なり。汝は天下の至宝を蔵むるものなり。天下の至宝を蔵むるもの是豈天下の大富人ならずや」
 「倦ず撓まず勉強して早く一人前になるよう心懸くべし」(前掲『紅葉全集第12巻』)
 君の金剛石の才能が、いまだ光を放つ時が来ていないがゆえに、天が君に苦難を与えて、自分を磨かせようとしているのだ。何を嘆くことがあろうか。
 断じて負けるな!
 天下の至宝を持てる誇りも高く、鍛錬せよ!
 ──厳しくも温かい叱咤激励であった。
 弟子を思う師匠の厳愛ほど、ありがたいものはない。
 鏡花は、後に感謝を込めて語っている。
 「その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある」
 「馬鹿め、しつかり修行しろ、というのであった。これもまた信じている先生の言葉であったから、心機立ちどころに一転することができた」(前掲『鏡花全集第28巻』)

師紅葉は苦境の弟子を激励
 君の頭脳はダイヤモンドだ 君は天下の大富人なのだ 倦まず弛まず勉強せよ!
弟子・泉鏡花は終生、師を慕った
 今も先生が目の前にいる いつも忘れないのは先生のことだ

 どんどん書け
 一、師匠は、弟子に、"立派に成長して名を成し、家を興し、父祖を輝かせていくことが、最大の供養になる"とも励ました。
 「どんどん読みどんどん書くべし」(前掲『紅葉全集第12巻』)と。
 そして、師は、生活苦にあえぐ弟子の文学の錬磨に、いや増して心血を注いだ。
 弟子の作品にさまざまな直しを入れ、自ら全部、筆写するまでの労をとったのである。
 鏡花は、その直しの原稿を大切に保管し、後世に宝として、ありのままに遺している。
 一、3年4カ月にわたって薫陶を受けた鏡花が、いよいよ師・紅葉の家を出る時のことである。紅葉は、弟子の前途を祝い、わざわざ会食を行ってくれた。
 鏡花は、深謝して綴っている。
 「紅葉先生、弟子の行を壮ならしむるため、西洋料理を馳走さる」「ホークと、ナイフの持ち方を教えられしも此の時なり」(笠原伸夫著『評伝 泉鏡花白地社
 師は、社会への雄飛を開始した弟子を思い、西洋料理の食べ方まで教えたのである。
 私も、学園1期生の代表を、卒業の折、帝国ホテルに招待して、マナーを教えながら、食事したことが懐かしい。今では世界の大舞台で、立派に活躍してくれている。
 一、その後、鏡花は、師の期待に存分に応えていった。
 『夜行巡査』『外科室』などの作品を次々と世に出す。苦境を脱し、気鋭の作家として、地歩を囲めていった。
 成功を収めつつあった鏡花の家を、突然、紅葉が訪ねてきて、上機嫌で歓談することもあったという。
 また紅葉は、質問に答えて、当時の最も良い若手の作家の一人に、弟子の鏡花の名を挙げている。
 愛弟子が成長し、堂々と社会に雄飛していく姿──師匠にとって、これ以上の喜びはないのである。

11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ 下-2に続く


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