2009年2月23日付 聖教新聞  婦人部・女子部最高協議会での名誉会長のスピーチ 中-2

2009年2月23日付 聖教新聞
婦人部・女子部最高協議会での名誉会長のスピーチ 中-2

 感謝と賞讃を

 一、リーダーの心構えについて、少々申し上げておきたい。
 広宣流布の前進において、無責任で自分勝手な、人まかせの心があってはならない。
 リーダー自身が苦しんでやり遂げたものだけが、立派に輝くのだ。
 中心者が要領を使い、楽をすれば、まわりも真似し始める。そうすると、広宣流布という民衆運動の"本体"がなくなってしまう。"格好"だけは動いていても、"中身"が失われる。
 責任者が苦労し、悩む。ともに戦う同志に対して、「ありがとう」「ご苦労さま」「本当によくやってくれました」と、深く感謝し、ほめ讃える。
 そうした誠実な振る舞い、真剣な言葉がなければ、温かな、血の通い合う世界ではなくなってしまう。
 どれだけ戦っても、ほめられない。激励の一言もない。そんなリーダーのもとでは、まるで"機械"のように扱われていると感じるかもしれない。
 「人間」は、どこまでも「人間」である。皆、等しく尊貴であり、かけがえのない使命がある。これを決して忘れてはならない。
 細かいことのように聞こえるかも知れないが、指導者の一分の隙、わずかな傲慢が、知らず知らずのうちに、尊い和合を壊していってしまう。未来のために、あえて申し上げておきたい。
 ともあれ、責任ある立場にありながら、自分白身が苦労を避けるて、自分はいい子になって、疲れないようにする。それで人材が育つはずがない。
 トップが自覚し、責任を持たなかったら、組織は崩れる。それが方程式である。

 人間を磨け

 「戸田先生は、幹部に対して厳しく言われた。
 「広宣流布を進める創価の師弟を、何よりも大事にし、護り切っていく。これが地涌の菩薩である」
 戸田先生は、牧口先生の弟子としての筋道を、いつもきちんとされていた。だから学会は伸びた。
 私と妻は、戸田先生に仕え抜いた。時代状況も悪いなか、先生のために本当に働いた。微塵も悔いはない。
 一、私は、両親のことも、真剣に護った。
 戦争中は、4人の兄が兵隊にとられ、肺病の私が残った。家は空襲で焼かれた。
 "日本一、世界一の親孝行をしよう!"と決めて、生き抜いてきた。また"歴史上、これほど師に仕えた人間はいなかった、と言われるくらい、戸田先生に仕えよう"と思い定めた青春であった。
 19歳で戸田先生に出会って以来、どれほどの苦しみのなかで、創価学会をここまで発展させてきたか──この胸中をわかる人間がどれだけいるか。
 本来、こういう場で言うべきではないのかもしれない。しかし、学会の未来を思えば、言わざるを得ない。
 今、油断してしまえば、隆々たる学会も、魔に食い破られてしまう。
 私が戸田先生のもとで戦っていた時代と比べて、今は、よほど恵まれている。
 できあがった組織のなかで役職に就いても、"本当の苦労"を知らなければ、人間は磨かれない。
 どうすれば「師弟の精神」を護り、正しく伝えることができるのか。この一点を考え抜く人が、真の創価のリーダーである。

 金剛不壊の「軸」

 一、いかなる時代になろうとも、学会の一番大事な精神性が「師弟」であることに変わりはない。
 増上慢が、仏法の一番の敵である。ましてや、わが師匠が大難を受けているにもかかわらず、腹の中で喜んでいるような者を、私は、絶対に許さなかった。
 師弟の精神を護らずに、広宣流布ができるわけがない。
 師弟こそ、あらゆる難を勝ち越える、金剛不壊の"軸"であるからだ。
 きょうは、この一点を皆さんに伝えておきたい。
 師弟なき学会は、前進の"軸"がないに等しい。
 皆様が「師弟」の精神を護っていけば、必ず素晴らしい指導者が湧き出てくる。その未来を、私は確信している。
 私も、もう一度、新たな革命を起こすぐらいの決心で、戦っていく。若々しい心で、一緒に進もう!(大拍手)

 正義の熱弁を

 一、戸田先生には、「何かあったら、大作に聞け」「大作は、わかっているから」と言っていただいた。
 「大作とは、何時間でも語りたいな」と言われ、何でも話し合う師弟であった。
 あまりにも激しい闘争のなか、先生は私に対して、"夜学も断念させて、すまなかった"──こうした思いでおられた。そして、一対一で万般の学問を教えてくださったのである。
 歴史学者のトインビー博士から手紙をいただいた時も、先生の訓練のおかげで、有意義な対談を成し遂げることができた。
 それが私の誇りである。
 死にものぐるいで、気取りを捨てて、「先生のためならば!」「魔には、学会に指一本たりとも触れさせないぞ!」との気迫で進んだ。いずこの地へ行っても、堂々と、先生の正義を訴え、熱弁を振るった。
 なかでも、「大阪の戦い」が一番大変であった。
 後に退転した、古参の幹部たちには、関西を下に見る心があった。嫌な、インチキな人間であった。
 しかし、予想を完全に覆し、私が指揮を執った大阪は勝った。
 私は戸田先生に全生命を捧げた。
 真剣勝負の「一人」がいる組織は必ず発展する。
 師弟に生き抜く「青年」が未来を開くのだ。

 青年に託す

 一、日中友好の先駆者であった実業家の高碕達之助氏は、「青年とは、常にその時代の行動者」であると述べ、激動の世界を生き抜いた、自らの青春を振り返っておられる(高碕達之助集刊行委員会編『高碕達之助集』東洋製罐)。
 氏とは、1963年(昭和38年)9月にお会いした。氏の逝去の半年前のことだった。
 その時、氏78歳。私は35歳──。
 日中友好の功労者は、息子ほど年の離れた年の私に、未来の希望を託された。
 私もまた、広宣流布の未来は、若き皆さんに託すしかない。そう心に決めている。
 青年部、頼むよ!(大拍手)

 女性こそ尊貴な「人類の大英雄」

 一、母の慈悲ほど、深く強いものはない。
 私が対話を重ねてきたインドの哲人ラダクリシュナン博士も、母親が命を懸けて子どもを守る勇敢さを、「至高の英雄的資質」であると心から讃えておられた (「ガンジーにおける『サティヤーグラハ』と池田大作における『人間革命』」、「東洋学術研究」第47巻弟1号所収)。
 〈名誉会長は、N・ラダクリシュナン博士と対談集『人道の世紀へ』を本年1月26日に発刊しているみ〉
 生命を守り、支え、育み、慈しむ女性こそ、最高に尊貴な「人類の大英雄」なのである。
 日蓮大聖人は、「不惜身命」の信心を、母の慈悲に譬えて教えられた。
 「関目抄」には「正法を護ろうとするならば、貪女がガンジス河にあって、わが子を愛念するがゆえに身命を捨てたごとくにしなさい」(御書233ページ、通解)との涅槃経の一節が引かれている。重要な意義が込められた御文である。
 母が子を護らんとしたように、正法を護り抜きなさい──こう大聖人は教えられた。そこにこそ、わが境涯を開く要諦がある。
 一、そしてまた、大聖人は記されている。
 「今、日蓮は去る建長5年(1253年)4月28日から今年弘安3年(1280年)12月に至るまで、足かけ28年の間、他のことは一切なく、ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れようと励んできただけである。
 これはちょうど、母親が赤子の口に乳をふくませようとする慈悲と同じである」(同585ページ、通解)

婦人部の信力・行力で学会は大前進
師弟ありて広布は勝利
ウズベキスタンの大詩人「幸福は戦う魂の中に!」

 大聖人は、立宗を宣言されて以来、いかなる大難も乗り越え、勝ち越えられながら、末法の民衆のために、妙法を弘め抜かれた。
 その御心は、母親が赤ちゃんを育てる慈悲の心と同じだと仰せなのである。
 わが婦人部の皆様方は、まさしく、この御本仏の御心に連なって、妙法を、粘り強く、誠実に、語り弘めてこられた。
 わが創価学会には、婦人部の皆様方の慈愛の光が満ちている。
 だから、強い。だから、明るい。
 だから、悩める友を温かく包む深さがある。

仏縁を広げよ!

 一、あの昭和27年(1952年)の「2月闘争」の折にも、婦人部の皆様方が、私とともに強盛なる信力、行力を奮い起こして立ち上がってくださった。そこに、厳然たる仏力、法力が湧き出たのである。
 戸田先生は、「勇気」が「慈悲」に代わると教えてくださった。
 時代の闇は深い。悩める友は、あまりにも多い。今こそ、太陽の大仏法を、勇敢に、快活に、大確信をもって語っていきたい。
 対話を広げた分だけ、仏縁は広がる。
 大聖人は仰せである。
 「信心というのは、特別なことではないのです。妻が夫をいとおしく思うように、夫が妻のために命を捨てるように、親が子を捨てないように、子どもが母親から離れないように、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることを信心というのです」(同1255ページ、趣意)
 実にわかりやすく、信心のあり方を教えてくださっている。
 「母の心」のごとく、正法を護り、正義の師弟を護り、友を励ましていくことだ。
 そこにこそ、真実の信心の歓喜が漲る。広宣流布の希望の前進が生まれる。
   (下に続く)

婦人部・女子部最高協議会での名誉会長のスピーチ 中〔完〕


ブログ はればれさんからのコピーです。