小説「新・人間革命」  8月21日 命宝45

ユキヒロ・カミツの父は、農業をしていたが、ウルグアイでも借金がふくらみ、にっちもさっちもいかなくなっていた。しかも、家族も病気がちであった。

 「信心で乗り越えられぬ問題はない」と、力強く訴える紹介者の話に、藁にもすがる思いで一家は入信した。

 信心を始めたカミツの面倒を見てくれたのが、彼より八歳上の、タダオ・ノナカという青年であった。

ノナカは、花の栽培を勉強するため、日本からアルゼンチンに渡る直前、姉夫婦の勧めで入会。アルゼンチンで本格的に信心に励み、ウルグアイに移り住んだ。

 カミツは、ノナカと共に活動に取り組むなかで、仏法への確信を深めていった。

 ウルグアイは、一九七五年(昭和五十年)当時、五十世帯ほどになっていた。

 山本伸一は、軍政下にあって、集会にも許可がいるなどの、ウルグアイの状況を聞き、心を痛めてきた。そして、未来への飛躍の契機になればと、広島での本部総会に、ウルグアイの青年たちを招待したのである。

 カミツは、この時、ウルグアイ広宣流布への決意を固めた。「今は苦しみなさい」との伸一の言葉は、彼の指針となった。

 「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」(注)とは、文豪トルストイの名言である。

 カミツは、猛然と戦いを開始した。

 弘教に、家庭指導にと奔走した。勇気を奮い起こし、自分の殻を破って、挑戦していってこそ、成長があり、境涯革命があるのだ。

 広島の本部総会から二年後の七七年(同五十二年)、ウルグアイのSGIは、法人資格を取得。タダオ・ノナカが理事長となった。そして、二〇〇五年(平成十七年)には、カミツが第二代の理事長に就任する。

 伸一も、ウルグアイの平和と発展を願い、一九八九年(同元年)には、訪日したサンギネッティ大統領と会談。さらに、二〇〇一年(同十三年)には、バジェ大統領のメルセデス夫人とも語り合い、交流に努めてきた。



引用文献:  注 トルストイ著『文読む月日』北御門二郎訳、筑摩書房