随筆 我ら勝利の大道 NO.4 誉れの「SGI家族」 ㊤㊦ 2010-2-1/2

◇ 随筆 我ら勝利の大道 NO.4 誉れの「SGI家族」 ㊤ 2010-2-1



世界一 偉大な目的 この人生 広宣流布に 闘う人かな



それは、五十年前の二月であった。私は日記に、中国の大文豪・魯迅の一節を書き留めた。

「道とは何か。それは、道のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘ばかりのところに開拓してできたものだ」

第三代会長に就任する三カ月前のことである。

道を開きたい。いな、断じて、道を開いてみせる!

恩師亡き後の同志のために、希望の道を。幸福の道を。平和の道を。栄光の道を。そして勝利の道を!

私は、さらに自らに言い聞かせるように綴った。

「幹部自身が”我不愛身命”の信仰であれば、わが学会は、永遠に上昇する」

リーダーが我が身を惜しまず、勇気の一歩また一歩を踏み出していくことだ。

率先が最も尊い。真剣が最も強い。地道が最も深い。

そこから、新しい道は必ず開かれるのだ。

師匠・戸田城聖先生のご逝去から二年ー。当時、第三代会長の誕生を望む声は、もはや抑え難き潮流と高まっていた。最初に烈々と声が上がったのは、縁も深き埼玉である。

「第三代と共に、我らは何ものも恐れず戦い勝つ!」

lあの埼玉の若き師子たちの叫びを、私は一生涯、忘れることはない。

さあ、日蓮大聖人の御聖誕、戸田先生の誕生の二月である。今年も断固として勝利の大道を開くのだ!

「『地球村』の一員という連帯意識こそ、平和と人間の安全保障の第一ステッ

プなのです」ハーバード大学のドウ・ウエイミン教授が力強く語られた言葉に、各界の識者も深く頷いておられた。

一九九五年の一月二十六日、ハワイの東西センターでの一幕である。

「平和と人間のための安全保障と題する私の講演に対して、ドゥ教授が講評をしてくださったのだ。

この直前の一月十七日、阪神・淡路大震災が起こった。

ぎりぎりまで出発の予定を延ばし、私は救援の手を打った。ハワイでの諸行義も、可節な限り凝縮して行わせていただき、逸る心で、不屈の同志が待つ関西へと直行したのである。

先般、大地震に見舞われた、カリフ海の真珠ハイチでも、わがSGI(創価学会インタナショナル)の同志は、懸命に復興へ奮闘している。私も妻も、題目を真剣に送り続ける日々だ。

先日も、隣国のドミニカ共和国コマツ婦人部長からご連絡をいただいた。

この一月二十四日に、国境にあるSGIの「平和の懸け橋」会館で、ハイチとドミニカの同志が一体で、前進の勇気みなきる会合を行いました!との報告であった。

世界の平和と安穏、人類の幸福を祈り、この地球を「善の連帯」で包みゆく私たちSGIの使命は、いやまして重大である。



SGI結成三十五周年の本年、心も新たに、我らは地涌の菩薩の陣列を一段と大きく広げていくのだ。

日蓮大聖人が「顕仏未来記」において、高らかに「一閻浮提広宣流布」を大宣言なされたのは、いずこの地であったか?

それは、離島の佐渡であられた。小さな島から、全世界を照らしゆく平和の大光を、万年の未来へ放たれたのである。

この大聖人の御境界を偲びながら、創価の第三代の私は一九六○年、世界広布への第一歩をハワイに印した。そして、SGIの誕生の天地はグアムに定めたのである。

ハワイもグアムも、沖縄とともに、戦争に苦しめられた島である。

一九七五年の一月二十六日、五十一カ国・地域からグアムヘ勇み集った友に、私は呼びかけた。

「全世界に妙法という平和の鐘を!」

それは、私自重の深い決心でもあった。

今、百九十二カ国・地域に広がった種は、それぞれの大地から力強く芽吹き、花開き、爛漫と咲き誇っている。すべての風雨を乗り越えて我々は勝ったのだ!

原点の地ハワイでも、グアムでも、この「1・26を最大の真心で祝賀してくださった。

すべて、わが誠実の同志への信頼の結晶である。アメリカSGIをはじめ、全世界の同志と分かち合わせていただきたい。

健気な日本の離島部の友の活躍も、見事である。

「SGIは生命尊厳の仏法を基調に、全人類の平和・文化・教育に貢献する」

「SGI憲章」に謳ったこの大精神のままに、私たちは、ますます生き生きと社会への貢献に尽力してまいりたい。



あな嬉し 世界の友も 晴れ晴れと 広布の模範の 皆様讃えむ



アフリカの世紀に!



ガーナ独立の父・エンクルマ初代大統領は叫んだ。

「幸いなことに、歴史は、それ自身の主要な法則ーすなわち、芽ぶきつつある将来はつねに枯れつつある過去より強いという法則ーの無数の証明を与えている」

私が第三代会長に就任した一九六○年は、まさに「アフリカの年」と呼ばれた。

この年の元日に、アフリ力のカメルーンが独立を果たした。さらに、セネガルトーゴガボンなど、十七カ国が次々と独立を果たしていったのである。

初の平和旅の途次、私たちは、ニューヨークの国連本部を訪問した。

建国の息吹に満ち満ちたアフリカ諸国の指導者の姿を目の当たりにし、私は「ニ十一世紀はアフリカの世紀!」と予見した。いな、熱願したのである。

アフリカには、「千は一から始まる」ということわざがある。

一九七四年の一月、ガーナに赴任する聖教新聞の若き特派員に、私は言った。

「やがて多くのアフリカの友が、仏法を求めて日本にやってくるよ。五十人。百人、そして千人。必ず、すごい時代になるだろう。

当時、それは、夢物語に聞こえたかもしれない。

だが、師匠から託された世界広布の大願を果たすため、アフリカの大地から地涌の菩薩を呼び出さずにおくものかーこれが私の覚悟であった。

私はひたぶるに祈り続けた。一人また一人、ありとあらゆる機会に、アフリカへのエールを送り、人知れず、手を打ち続けてきた。

御聖訓には、「物たね(種)と申すもの」なれども植えぬれば多くとなり」(御書九七一ページ)と仰せである。

蒔かぬ種は生えない。妙法の種を労苦を惜しまず、一つ、また一つ蒔き続けていく。そのたゆみない繰り返し以外に、広宣流布の前進はないのだ。

芽吹いた妙法の種なぜ、仏法がアフリカに広がったのか?

その答えを見つけるために、自ら現地へ足を運び、民衆の輪に飛び込んで取材を重ねた日本の識者がいる。

名画「名もなく貧しく美しく」など数々の傑作を残した映画監督で、作家としても高名な松山善三先生、その人である。

一九八○年代の半ばのことだ。

アフリカ広布の先駆を切ったガーナでSGIメンバーの取材をしていると、そこへ突然、隣国トーゴから車でやって来たという三人の若人が現れた。

その一人の女性が、現在のトーゴSGI理事長であるイダ・アジエビさんであった。

「西アフリカの名医」として名高い彼女は七九年、フランス留学中に入会した。

三年後、母国のトーゴに戻り、たった一人で活動を開始した。その後、アメリカから来た創価の女性と一緒に折伏を重ねていった。

メンバーは、この時、六十八人にまで広がっていた。その名簿を手に「座談会の開き方や、御書のことを教えてもらいたい」と、国境封鎖が解けるのを待って、ガーナまで求道の歩みを進んできたのだ。

松山先生はもちろん、居合わせたSGIメンバーも驚嘆した。誰も知らないところで妙法の「種」は、しっかりと大地に根を張っていたからである。

トーゴSGIでは、一九八五年に「地区」が結成され、イダさんが初代の地区部長に就任した。それが、二○○○年には「本部」にまで発展した。

今やメンバーは飛躍的に拡大し、千人規模の大総会も開催。青年を先頭に、はつらつと大前進している。

松山先生は綴られた。

「誰が、その地へ題目を伝えたか。誰がそれだけの信徒を集めたか。寺の僧侶ではない。名もなき学会員の一人ひとりが、自分の足を運んで、その功徳をわかち合いたいという願いによってである」

誰かに言われたわけではない。自らの生命に湧き出ずる歓喜を、一人でも多くの人と分かち合いたい。その思いを抱いた一人が、身近な一人と対話を交わし、また一人へと広がった。

壮大な世界広布の潮流も源流をたどれば、どこまでも一対一の「対話」が基本である。

思えば、恩師・戸田先生は法難の獄中で、「仏とは生命なり」「われ地涌の菩薩なり」と覚知なされた。

その時、仏法の人間主義の哲理は、現代に生き生きと蘇ったのである。

私たち創価の友は、「生命尊厳」と「人間尊敬」の仏法を、全世界に弘めゆく使命をもって、この世に生まれてきた地涌の菩薩だ!

「撰時抄」には厳然と仰せである。

法華経を二人・三人・十人・百千万億人.唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(同二八八ページ)

この御金言の通りに、妙法に巡りあった平和と歓喜の大連帯は、国境も超えて民衆を結び、一閻浮提に波動してきたのである。

我らSGIは、永遠に「一人立つ」精神を燃やし続ける!

そして、いかなる人も尊極の仏の生命を持った存在であるゆえに、どこまでも「一人」を大切にし、励まし続けるのだ!  (㊦は明日付に掲載)



魯迅の言葉は『魯迅評論集』竹内好訳(岩波書店)=訳文は現行本に合わせた。エンクルマは『新植民地主義』家正治・松井芳郎訳(理論社)。松山善三は『ああ人間山脈』(潮出版社)。