【第2回】 この道は勝利の道 愛知 2010-1-22
◇ 第2回 この道は勝利の道 愛知 2010-1-22
「今日も元気で」の弾むような歌声が今、日本のあの町この街に響いている。
年頭を飾る婦人部の集いが、地域での開催となって35年。愛知の誇りは、この総会に、全国で初めて、”池田先生をお迎えしたい”ことである。
「よし、南区に行こう!」ーそれは、関西から名古屋文化会館に着いたばかりの午後だった。
「遠くてもいいんだ。南区に行くよ!」
この日、昭和51(1976年)1月16日には、名古屋の300会場で婦人部総会が開かれる。幾つかの候補から名誉会長が選んだのは、最も遠い名古屋南会館(現・名古屋南平和会館)。
車で50分ほどかかる。
そこにも、理不尽な圧迫に耐え、歯を食いしばってきた健気な同志がいた。昭和45年前後に破き荒れた〃言論問題〃以来、激戦また激戦を越えてきた友を、何としても励ましたかった。
車で着いた名誉会長は、会館へ急ぐ婦人たちを見っけて、手招きした。
その一人、尾関節子さんは、夫婦で営む町工場から、夕食の暇もなく駆け付けていた。
「婦人部の力ですね。ご苦労さまです」
躯け寄った尾関さんの手を、名誉会長の手が包む。
温かく、柔らかかった。
細尾ミツエさんは、近隣の同志を誘っていて、来るのが遅れてしまった。背中に乳飲み子。おなかにも、もう一人の子がいる。
にっこりと、赤ちゃんの頭を撫でた名誉会長。
「みんなで写真を撮ろう」
そして、同行の幹部には、こう諭すのだった。
「こういう人たちを、大事にしなければいけないよ」
総会で、名誉会長は、財界人から、こんな質問をされたと、紹介してくれた。
「世界で一番偉いのは誰ですか」
財界人は、釈尊などの名を挙げると思ったらしい。
「私は答えました。『一番尊くて偉いのは、一般市民のお母さんです!』と。
お母さんこそ、雨の日も風の日も、太陽のように変わることなく、わが友とわが家族を、慈愛を込めて守ってくれています!」
感激、感涙、そして感謝ー「皆さんの喜びは、例えようもないほどでした」と、ある友は振り返る。
頑張った人、苦しんできた人は、励まさずにはおかない。一方、創価の城を継ぐ青年には、厳父の如く。
これが名誉会長の指導哲学である。昭和48年(1973年)1月の愛知訪問もそうだった。
13日、豊田市体育館。県内から集った5000人との記念撮影が行われた。
撮影台の前段には、藤岡村と小原村(ともに現・豊田市)の友らが配された。
前年の集中豪雨で、大きな被害にあった地域である。
「いつも朗らかに、勇気に満ちた信仰を続けてください!」「大聖人の仏法を持つ人は、必ず変毒為薬できるのです!」
一方、若い青年には「烈風を受けながら、信念を貫き、もがき苦しみ、かじりついて成長した人が本物です」と鋭い声だった。
翌14日、名古屋文化会館での、「中部末来会」2期生を中心とした懇談会。
居合わせた二人の年配の婦人を労いつつ、未来部、友には「烏合の衆では仕方
ない。一匹の獅子をつくらなくてはいけない」と、大人の信仰者として接した。
愛知の友が〃われらの先生“と歩んだ道ー。
「この道」は正義の道。「この道」は絶対勝利の道!
90回を超える激励行が点した覚悟と確信は、いや増して友の命に燃え続ける。
「今日も元気で」の弾むような歌声が今、日本のあの町この街に響いている。
年頭を飾る婦人部の集いが、地域での開催となって35年。愛知の誇りは、この総会に、全国で初めて、”池田先生をお迎えしたい”ことである。
「よし、南区に行こう!」ーそれは、関西から名古屋文化会館に着いたばかりの午後だった。
「遠くてもいいんだ。南区に行くよ!」
この日、昭和51(1976年)1月16日には、名古屋の300会場で婦人部総会が開かれる。幾つかの候補から名誉会長が選んだのは、最も遠い名古屋南会館(現・名古屋南平和会館)。
車で50分ほどかかる。
そこにも、理不尽な圧迫に耐え、歯を食いしばってきた健気な同志がいた。昭和45年前後に破き荒れた〃言論問題〃以来、激戦また激戦を越えてきた友を、何としても励ましたかった。
車で着いた名誉会長は、会館へ急ぐ婦人たちを見っけて、手招きした。
その一人、尾関節子さんは、夫婦で営む町工場から、夕食の暇もなく駆け付けていた。
「婦人部の力ですね。ご苦労さまです」
躯け寄った尾関さんの手を、名誉会長の手が包む。
温かく、柔らかかった。
細尾ミツエさんは、近隣の同志を誘っていて、来るのが遅れてしまった。背中に乳飲み子。おなかにも、もう一人の子がいる。
にっこりと、赤ちゃんの頭を撫でた名誉会長。
「みんなで写真を撮ろう」
そして、同行の幹部には、こう諭すのだった。
「こういう人たちを、大事にしなければいけないよ」
総会で、名誉会長は、財界人から、こんな質問をされたと、紹介してくれた。
「世界で一番偉いのは誰ですか」
財界人は、釈尊などの名を挙げると思ったらしい。
「私は答えました。『一番尊くて偉いのは、一般市民のお母さんです!』と。
お母さんこそ、雨の日も風の日も、太陽のように変わることなく、わが友とわが家族を、慈愛を込めて守ってくれています!」
感激、感涙、そして感謝ー「皆さんの喜びは、例えようもないほどでした」と、ある友は振り返る。
頑張った人、苦しんできた人は、励まさずにはおかない。一方、創価の城を継ぐ青年には、厳父の如く。
これが名誉会長の指導哲学である。昭和48年(1973年)1月の愛知訪問もそうだった。
13日、豊田市体育館。県内から集った5000人との記念撮影が行われた。
撮影台の前段には、藤岡村と小原村(ともに現・豊田市)の友らが配された。
前年の集中豪雨で、大きな被害にあった地域である。
「いつも朗らかに、勇気に満ちた信仰を続けてください!」「大聖人の仏法を持つ人は、必ず変毒為薬できるのです!」
一方、若い青年には「烈風を受けながら、信念を貫き、もがき苦しみ、かじりついて成長した人が本物です」と鋭い声だった。
翌14日、名古屋文化会館での、「中部末来会」2期生を中心とした懇談会。
居合わせた二人の年配の婦人を労いつつ、未来部、友には「烏合の衆では仕方
ない。一匹の獅子をつくらなくてはいけない」と、大人の信仰者として接した。
愛知の友が〃われらの先生“と歩んだ道ー。
「この道」は正義の道。「この道」は絶対勝利の道!
90回を超える激励行が点した覚悟と確信は、いや増して友の命に燃え続ける。