正義 27 2014年 2月3日
しかし、広布への責任と使命を自覚できない僧には、社会、民衆に仏法を開いていくことの大切さが、わからなかったにちがいない。
また、激しさを増す僧たちの学会誹謗と相呼応するかのように、一九七七年(昭和五十二年)の七月下旬から、一部の週刊誌が学会への中傷記事を掲載し始めた。
学会を敵対視する住職のなかには、御講の席で御書講義もそっちのけで、そうした週刊誌を手にして学会を誹謗する者もいた。
「ここに出ていることは本当なんです! 学会に騙されている。学会は謗法です」
学会を攻撃する寺は、次第に増えていった。
多くの学会員にとっては、青天の霹靂であった。会員は皆、寺に対して、純真に尽くし抜いてきた。
だが、御講に行くたびに、〝謗法〟呼ばわりされるのである。
皆、訳がわからなかった。?然とした顔の壮年もいた。悔し涙をこらえる婦人もいた。抗議の声をあげる青年もいた。
〝こんなことを言われるくらいなら、もう寺には来たくない〟と、肩を落とし、悔しさと怒りに震えながら家路をたどるのである。
悪侶による学会への誹謗は、葬儀の場にも及んだ。学会員ではない親戚や縁者が多数集った通夜の席で、「創価学会の信心では成仏できない」と、僧が言うのである。
最愛の肉親を亡くした悲しみの傷口に、塩を塗るような非道な仕打ちであった。
「哀悼の涙」は、「憤怒の涙」に変わった。
誰もが耳を疑うような、予期せぬかたちで競い起こるのが魔なのである。