勤行・唱題 上

「みんなで学ぶ教学」

勤行・唱題 上

祈り — 大宇宙の根本のリズムに合致

 世界192カ国・地域へと拡大してきた創価学会が本年、「世界広布新時代 開幕の年」をテ−マに、新たな前進を開始しました。気宇壮大な志を胸に、わが地域、わが友に広布の熱情を広げていきましよう。
 広宣流布大誓堂の「誓」とは「誓願」です。
 広布の実践を勝利へと結実させる原動力となるもの、それは「誓願の祈り」です。あらゆる括動へ、朗々たる祈りから出発していきましょう。「みんなで学ぶ教学」は今回から3回にわたって、勤行・唱題の基本を確認していきます(〈中〉は2月に掲載予定)。

生命に具わる仏界を顕す

 私たち創価学会員は日々、朝晩に勤行・唱題を実践しています。勤行・唱題は、日蓮大聖人の仏法の仏道修行の根幹です。
 御本尊に向かって題目を唱える時、私たちの″心のエンジン″が勢いよく回転を始めます。私たちの生命に元来、具わる仏の生命が涌き出すのです。
 その仏の生命に具わる智慧や勇気を存分に発揮することで、現実生活に生じるさまざまな課題に挑戦し、乗り越えていくことができます。
 仏の生命を輝かせ、何もの混も紛動されない、困難に負けない、強い自身を築いていくのです。それが、勤行・唱題の目的です。
 大聖人は、私たちが日々、唱題の実践を続けることを、曇った鏡を磨くことに誓えて、次のように仰せです。
 「たとえば、曇っている鏡も磨いたならば、輝く玉のように見えるようなものである。今の私たちの一念が、無明におおわれて迷いの心である時は磨いていない鏡であり、これを磨けば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)の明鏡(めいきょう)となるのである」 (御喜384ページ、通解)
 「無明」とは、妙法を信じられず、自分や他人の仏性を見つめることのできない、生命の闇といえます。「法性真如」とは、仏の覚(さと)りの生命です。
 勤行・唱題をすることによって、無明を法性に転じることができるのです。


法華経は民衆の成仏を説く教典

 勤行では、法華経の一部分を読誦(どくじゆ)しています。
釈尊(しゃくそん)の教えのなかでも、全民衆の成仏を説き切っている経典が法華経です。特に重要となる方便品(ほうべんぽん)第2と如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第16の大事な部分を読んでいるのです。
 方便品では冒頭から諸法実相(しょほうじっそう)・十如是(じゅにょぜ)までの部分を寿量品では「自我偈(じがげ)」を読んでいます。
 自我偈の「偈」とは、詩句形式の経文をいいます。「自我得仏来(じがとくぶっらい)」から始まっているため、自我偈というのです。
 自我偈は寿量品の要約であり、法華経の魂です。
 
 自我偈は題目の功徳を助け顕します。
 大聖人も、諸天善神への供養や、故人への回向(=自らが仏道修行で得た功徳を回らし向けること)などをされる時は、「自我偈少少」(同915ページ)等と言われて自我偈を読誦されたようです。
 方便品・自我偈の読誦には、南無妙法蓮華経の題目を賛嘆するという意義があります。成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を、方便品・寿量品という仏の最高の言葉によって賛嘆するのです。
 御本尊を信じ、南無妙法蓮華経の唱題行を実践し、賛嘆して、生命を錬磨していく。そこに勤行の意味があります。
 このことを理解したうえで、読経と唱題の関係を確認すると、あくまでも根本は唱題です。すなわち、南無妙法蓮華経の題目を唱えることです。
その唱題の利益(りやく)を助け顕すために、法華経を読むのです。

唱題行に絶大な功力が

 ここで、私たちが唱えている「南無妙法蓮華経」について解説します。
 南無妙法蓮華経は、宇宙と生命を貫く法の名であり、仏の名であり、私たちの生命に具わる仏性の名でもあります。
 南無妙法蓮華経は、梵語(ぼんご)(=サンスクリット)の「ナマス」等の音を漢字にあてはめて訳した「南無」と、成仏の法であり、法華経のタイトルでもある漢語の「妙法蓮華経」(「法華経」はその略称です)から成り立っています。
     
 南無は「帰命(きみょう)」を意味します。帰命とは、命を捧げる、それほど大事に敬うということです。つまり、南無妙法蓮華経は、「妙法蓮華経に帰命する」ことを意味します。
 大聖人は、この南無妙法蓮華経の題目に絶大な功力があると仰せです。
題目を唱えることによって、白身の生命のリズムが大宇宙を貴く法則のリズムに合致するのです。

 池田大作名誉会長は語っています。「何よりも大切な妙法を唱え、妙法を行じ、妙法のために戦う人の祈りは、まっすぐに大宇宙の根本の律動に合致していくのである。したがって祈りが叶わないわけがない。諸天善神も、仏菩薩も、必ず必ず護るのである」
 祈りによって自身の仏界を涌現(ゆげん)し、生命のエンジンを回転させながら、日々の課題に挑戦し、前へ前へ、希望の方向へと、勇んで進んでいきましょう。



何があっても負けない自身を築く
池田名誉会長の指針から

 いずこにあっても、いかなる時も、私と君たちは、誓願の題目で深く強く結ばれている。
 何ものにも破られない金剛不壊(こんごうふえ)の絆です。
 大聖人は、「一(ひとつ)の師子王吼(ししおうほゆ)れば百子力(ひゃくしちから)を得て諸(もろもろ)の禽獣(きんじゅう)皆頭七分(こうべしちぶん)にわる」 (御書1316ページ)と仰せになられた。

一人の後継の師子が師子吼(ししく)すれば、一切が変わる。
 時代は、ますます濁り、乱れている。
 だからこそ、我らは、この広宣流布大誓堂を中心に、それぞれの使命の舞台で、自行化他の題目の師子吼を、いやまして勇気凛々と響かせ、ありとあらゆる邪悪に打ち勝ち、わが地涌の眷属(けんぞく)の威光勢力を無限に増してゆくのだ。(2013年11月30日付、青年部代表勤行会への池田名誉会長のメッセージ)

 祈り−それは、あきらめない勇気だ。自分には無理だと、うなだれる惰弱(だじゃく)さを叩き出す戦いだ。″現状は変えられる!必ず!″。確信を命の底に刻(きざ)み込む作業だ。

 祈り−それは恐怖の破壊(はかい)なのだ。悲哀(ひあい)の追放なのだ。希望の点火なのだ。運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。
 自らを信じよ! 卑下(ひげ)するなかれ! 卑下は仏法への違背(いはい)だ。胸中の仏界への冒涜(ぼうとく)だからだ。
 
祈り−それは我が生命のギアを大宇宙の回転に噛み合わせる挑戦だ。宇宙に包まれていた自分が、宇宙を包み返し、全宇宙を味方にして、幸福へ幸福へと回転し始める逆転のドラマなのだ。

 人間は人間−その人間の可能性の扉を次から次へと開いていく キー《鍵》が祈りなのである。
(2004年10月10日付、池田SGI会長の「地球紀行我がふるさとは世界」)
(2014年1月5日付 聖教新聞