勤行・唱題 中

「みんなで学ぶ教学」〈特別編〉
 勤行・唱題 中

 創価学会伝統の「2月騒争」を弘教拡大でまい進

 今、あの地この地で人材が陸続と躍り出ています。新会員や、新たに広布に立ち上がっ、たメンバーと共に信心の基本を学んでいくために、勤行・唱題の意義を確認し、自身に具わる可能性を開く仏道修行を実践していきましよう。
   今回の「みんなで学ぶ教学〈特別編〉」では、法華経の方便品(ほうべんぽん)・如来寿量品(にょらいじゅりようほん)についての解説と、両品のなかで、私たちが勤行で読誦(どくじゆ)している箇所のあらすじを掲載します(〈下〉は3月に掲載予定)。

無限の可能性を開く仏道修行


 法華経は「誰もが皆、仏の生命を具(そな)えている」と説いています。その法華経のなかでも特に重要なのが方便品(ほうべんぽん)と如来寿量品(にょらいじゅりようほん)です。それぞれ「諸法実相(しょほうじっそう)」と「久遠実成(くおんじっじょう)」が説かれているゆえに、重要とされます。

 諸法実相(しょほうじっそう)の「諸法」とは、この現実世界におぃて、さまざまな姿をとってあらわれている「すべての現象」です。「実相」とは「究極の真理」です。

 この諸法と実相が別々のものではなく、諸法はそのまま実相の現れであり、実相は決して諸法から離れてあるものではないとするのが、諸法実相(しょほうじっそう)です。

 日蓮大聖人は諸法実相について、「地獄界から仏界までの十界の衆生(=生きとし生けるもの)とその環境世界は、すべて妙法蓮華経の姿である」(御書1358ページ、趣意)と仰せです。
 「地獄界から仏界までの十界の衆生とその環境世界」がすべての現象(=諸法)、「妙法蓮華経」が究極の真理(=実相)にあたります。つまり、十界の衆生はことごとく妙法蓮華経にほかならない、と示されているのです。妙法蓮華経は仏が覚(さと)った妙法、仏の生命の名ですから、生きとし生けるものは、すべて仏の生命を具えている、ということになります。

 この法理が説かれることによって、法華経の結論である万人成仏の理論的な基盤が確立されます。これは、法華経以前の教えである爾前経(にぜんきょう)にはなかった考え方でした。
         
 また、寿量品で釈尊(しゃくそん)は「多くの人は、私(=釈尊)が釈迦族の王宮を出て、(王子の立瘍を捨てて)出家し、修行して、伽耶(がや)という街の近くの菩提樹(ぼだいじゅ)の下で成仏したと思っているであろう。しかし、そうではないのだ。私は実に、五百塵点劫(ごひゃくじんてんこう)のはるか昔に、すでに成仏していたのである」(法華経477ページ、趣意)と説いています。

 この言葉が語られるまで釈尊の弟子たちは、釈尊が今世ではじめて成仏し(=始成正覚(しじょうしょうかく))、仏の生命を得た、と信じていました。
 しかし、寿量品に至って釈尊は、自身が、はるか久遠の昔に成仏していたことを明かします。これを久遠実成(くおんじつじょう)といいます。仏の生命が永遠であることが明らかになったのです。

 今世で初めての仏の生命を得たのではなく、もともと仏の生命を有していたのだ。と。これにより、「説かれた法」と「説いた人」が一致します。理論の上で示されてた法理が、事実の上で明らかになったのです。


日蓮仏法の立場で法華経を読む


 ここで確認しておきたいことがあります。私たちは勤行のなかで法華経を読誦(どくじゆ)していますが、あくまでも日蓮大聖人の仏法の立場から読んでいるという点です。
 法華経釈尊の慈悲が脈打つ最高の経典です。しかし、釈尊在世には人々を救う力があったその教えも、時代が下るにつれて人々の機根(=仏法を理解する能力)が悪くなるために、次第に適用しなくなります。

 大聖人は、機根が悪い時代の人々を救うための方途として、釈尊を成仏せしめた根源の法、さらには、あらゆる仏を成仏せしめた根源の法こそが南無妙法蓮華経であると示され、御自身の生命に現したその妙法を南無妙法蓮華経の御本尊として御図されました。南無妙法蓮華経こそが、末法における万人成仏の道を開く要法です。
  
 「文上(もんじょう)」、「文底(もんてい)」という言葉があります。文上とは文の上、経文の上、表面という意味です。
 実は、法華経では、釈尊が仏になったことは記されていますが、その原因は明らかにされていません。経文には表面上、あらゆる仏を成仏させた根源の法の正体については説かれていないのです。

 これに対して、文底とは、文の底、経文の奥底・根底のことです。釈尊が久遠の昔に成仏した根源の法は、南無妙法蓮華経であるとの元意を読み取る見方です。すなわち南無妙法蓮華桂は「法華経寿量品の『文の底』に沈められた」(御書189ページ、趣意)法華経の肝要なのです。この文底の立場から法華経を読むことが重要です。

 大聖人は「法華経の極理(=究極の教え)とは南無妙法蓮華経是なり」(同844ページ)と述べられています。法華経のエッセンス(=本質)は題目の七字にすべて収まるのです。
 そのうえで、方便品・寿量品の読諦には、大聖人の仏法を根本として法華経を用いていく、という意義があります。そうした意義をこめて法華経を読誦しているのであって、一番、重要なことは、南無妙法蓮華経を唱える唱題行にあるのです。
 このことを銘記(めいき)して、勤行・唱題に励んでいきましょう。

『勤行要典』の経文あらすじ

 私たちは日々法華経の方便品(ほうべんぽん)・自我(如来寿量品(らいじゅりょうほん)の経文のうち、詩句(しく)形式の部分)を読誦(どくじゆ)しています。ここでは、その経文のあらすじを掲載します。

方便品◆ 

 その時に、三昧(さんまい)(=瞑想(めいそう)による安定した境地)に入っていた釈尊(しゃくそん)は起ちあがり、舎利弗(しゃりほつ)(=釈尊十大弟子の一人)に告げた。
    
 あらゆる仏の智慧(ちえ)は、はなはだ深く、かつ量(はか)ることができない。その智慧の門は、理解し難(がた)く入り難いのである。
 なぜなら、仏はかつて無数の諸仏に親しみ近づき、量り知れない諸仏の教えを行(ぎょう)じ尽くしたからである。そこで、いまだかつてない法を成就したのである。

 私は成仏してから、さまざまな因縁(いんねん)、誓喩(ひゆ)によって教えを説き、無数の方便を用いて衆生を導いてきた。仏の智慧(ちえ)は広大で深い。その智慧の境涯に入り、いまだかつてない法を成就した。
 舎利弗よ、これ以上、説くことはやめよう。仏の成就された法は理解し難いからである。ただ仏と仏とのみが、よく諸法(しょほう)の実相(じっそう)を究(きわ)め尽(つ)くされている。それは、いわゆる、

 諸法の如是相(にょぜそう)、如是性(しょう)、如是体(たい)、如是力(りき)、如是作(さ)、如是因(いん)、如是緑(えん)、如是果(か)、如是報(ほう)、和是本末究責等(ほんまっくきょうとう)である。

自我偶
     
 私が仏に成ることを得て以来、経過した時間は無量である。(その間)常に法を説き、無数の衆生を教化して、仏道に導き入れてきた。
 (仏は)衆生を救おうとするゆえに方便を用いて涅槃(ねはん)(=仏の死。「入滅」とも言う)の姿を現ずる。しかし、実は(私は)入滅していない。常にここに住して法を説いている。

 人々は、私の入滅を見て、私を恋い慕(した)う心を懐(いだ)く。自らの身命も惜(お)しまないようになる。その時、私は、多くの弟子たちとともに、ここ霊鷺山(りょうじゆせん)(=釈尊法華経を説法した場所)に出現するのである。
 その時、私は衆生に語るだろう。私は常に霊鷺山に存在し続けており、滅することはない。方便の力で、入滅の姿を現すのである、と。
 長い間、私は常に霊鷺山にいるのであり、また折にふれて、その他の場所にもいるのである。衆生が「世界が滅んで、大火に焼かれる」と見る時も、私の住むこの国土は安穏なのだ。そこはまさに、衆生が遊楽(ゆうらく)する場所である。
 智慧ある人々よ。仏の言葉は真実であり、偽(いつわ)りはない。
 凡夫(ぽんぷ)は心が顚倒(てんどう)しているので、私は実際はこの世にあるのだが、入滅すると言う。なぜなら、常に私を見てい各と、騙(おご)りやほしいままの心を生じ、悪道に堕(お)ちてしまうからである。私は、常に衆生仏道修行に励んでいるかいないかを知って、どう救っていくべきかに従(したが)って、さまざまの法を説く。
 私は常に念じている。ようにすれば、衆生を、無上の道(=覚り)に入らせ、速やかに仏身を成就させるができるだろうか、と。

(2014年2月9日付 聖教新聞