正義 56 2014年3月8日

入会した波多光子に、露崎アキは、勤行とともに弘教に励むことの大切さを力説した。
日蓮大聖人の仏法は、自行化他にわたる信心や。自分も、周りも、共に幸せにならんと、本当の幸せはないやろ。
たとえば、周りの人が飢え死にしとるなかで、自分だけうまいもん食べて幸せになれると思う? 
なれんやろう。自分だけ極楽に行くために祈っとる宗教なんて、本当の宗教やあらへんに。
大聖人の仏法は、自分が今世で仏さんになる信心なんやに。それを成仏いうんやに。
自分の幸せしか考えない仏さんなんておらへんに。一人でも多くの人に仏法を教え、幸せにしていくことで、仏さんになれるんやに」
その言葉に、波多は感心した。その通りだと思い、仏法対話に歩いた。すると、周囲の人たちから、猛反発が起こった。
まず怒りだしたのが他宗の僧であった。それに煽られ、周囲の人たちも、「頭がおかしいんと違うか!」と罵り、仏法対話に行けば、水や塩を撒き、石を投げつけるのだ。
「なぜ、こんな目に遭うんやろう」
水垢離などをする他の信仰をしていた時には、全くなかったことである。
波多は露崎と一緒に、所属組織である大阪の堺支部の幹部と会い、指導を受けた。
日蓮大聖人は、『此の法門を申すには必ず魔出来すべし』(御書一〇八七p)と仰せになっているんです。
末法という、衆生の生命が濁り切り、人びとは悪法が正しいと信じている時代に正法を説くのだから、反対されたり、弾圧に遭うのは当然ではないですか。
また、大聖人は御書の随所で、『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る』(同)との、天台大師の言葉を引かれ、本気になって信心していれば、それを妨げようとする障魔が競い起こると断言されているんです」
仏道修行に励めば魔が競い起こると、覚悟を定めることこそ、信心の第一歩である。
新入会者に、弘教の実践とともに、それを徹底して教えてきたことによって、広宣流布の組織の盤石な基盤がつくられたのだ。