随筆 民衆凱歌の大行進 No.10 (2014.8.14付)


正しき人生とは
「自他共の幸福」の大道を歩め
生死の闇を照らす太陽を胸に
 台風11号の甚大な被害に、重ねて心からお見舞いを申し上げます。
 災害との闘いが続くなか、大切なわが宝友の無事安穏を、さらに一切の変毒為薬を、いやまして祈り抜いております。
      ◇
 広宣流布の大師匠たる戸田城聖先生に、私が初めてお会いしたのは、2度目の終戦の日を迎えようとする前夜であった。昭和22年の8月14日のことである。
 この時、19歳の私には、どうしても知りたい命題があった。それは、「正しい人生とは」という一点である。そして遂に、この問いをぶつけることのできる信念の大哲人に巡り合えたのだ。
 先生の答えは、まことに明快であった。
 「人間の長い一生には、いろいろな難問題が起きてくる」と語られ、なかんずく「生老病死」という根本問題が正しく解決されなければ、真の正しい人生はあり得ないと結論なされた。
 先生は私に「日蓮大聖人は、この人生の難問題、すなわち生命の本質を解決してくださっている」「実践してごらんなさい。青年じゃありませんか」と、力強く勧めてくださったのだ。
 私は戸田先生を信じ、10日後の8月24日に入信した。
 以来、67年。この上ない「正しい人生」を、師と共に、同志と共に歩み抜くことができたと、感謝は尽きない。
 最極の
  信仰 持ちて
   敢然と
  正しき軌道を
   進み勝ちゆけ
命のある限り!
 生まれる苦しみ。老いる苦しみ。病む苦しみ。死にゆく苦しみ……。
 誰人《たれびと》も避け得ぬ「生老病死」という現実にあって、生命と宇宙を貫く大法則に則《のっと》って前進する旅が、いかに心強いか。
 私たち夫婦の忘れ得ぬ白樺グループ・白樺会(看護師の集い)の先駆の女性は、重い病と闘う病床にあっても、常に御書を拝した。とりわけ心に刻んでいた一節がある。
 「命のある限り、南無妙法蓮華経と唱え抜いて死んでいくならば、その生命は、釈迦・多宝・十方の諸仏に瞬時に包まれる。そして、無数の諸天善神に守護されながら、確かに寂光の宝土へと送り届けられるのである」(御書505㌻、趣意)
 この仰せのままに、命の炎が燃え尽きるまで、妙法を唱え抜き、夕日が真っ赤に燃え上がるように使命を果たして、安らかに霊山へ旅立たれた。ご家族も後継の道を立派に勝ち進んでおられる。
 イギリスの大歴史学者トインビー博士も、生死の苦悩から救われるためには、「何らかの宗教を持《も》つ以外に方法はないと信じます」と強調されていた。さらに、「他人への愛や他人の幸福に対する思いやり」「自己を越えた何ものかを求めるように導くことによって、自己中心性から脱却させてくれる精神」が必要である、と。
 まさに永遠不滅の妙法を抱き、目の前の一人を励まし、広布の大ロマンに生きる、創価の友の姿そのものではないか。
常楽我浄の輝き
 法華経では、生命尊厳の象徴として、壮麗なる宝塔が涌出する。
 「御義口伝」には、この宝塔の四つの面とは、「生老病死」のことなりと仰せである(御書740㌻)。我らが一身の生命の宝塔は、実は、生老病死をもって荘厳されていると言われるのだ。
 我らが妙法を唱えて生き抜く時、生老病死の流転の人生が、そのまま「常楽我浄」の香風に包まれていくのである。
 皆、生身《なまみ》の人間である。体調を崩すこともある。年とともに、思うように体も動かなくなる。
 しかし、わが生命そのものが、最も尊極なる宝塔である。何があっても題目さえ離さなければ、人生の四季折々に、すべてを「常楽我浄」へ転じつつ、自他共に宝塔を輝かせ切っていけるのだ。
 そもそも法華経には、仏も「少病少悩」と説かれている。その意義を踏まえて、戸田先生は闘病中の人に語られた。
 「衆生は皆、病気を抱えている。その衆生を励まし救うには、仏自身も病気を持っていないと、つきあいにくいのです」
 あえて自ら病や悩みを引き受け、勝ち越えて、皆を勇気づけ、力づけていくというのである。
 妙法の力用は絶大である。私たちには、その証明者である“多宝”の大先輩がいらっしゃる。
 聖教新聞では、「生老病死を見つめて」という連載が始まっている。
 「死を受け入れる」という難しいテーマに取り組み、大きな反響が寄せられていると伺った。
 記事で、白樺会の友の言葉が紹介されていた。
 「私は、“自分が受け持つ患者さんに出会えたことに感謝しよう”と常に心掛けてきました」「感謝の心があれば、亡くなっていく患者さんを包んでいける。臨終を恐れる患者さんの心境も、変えていけるのです」
 本来、感謝される側が感謝の心に立つ。永遠の生命観の上から、祈りと真心で献身する。何と深遠な志であろうか。白樺の方々、またドクター部の振る舞いこそ、現代医療の光明なりと信ずる。
追善回向の本義
 この8月15日、青年部主催の「世界平和祈念 戦没者追善勤行法要」。また東日本大震災の被災地・東北をはじめ、全国各地で「諸精霊追善勤行法要」が営まれる。
 広宣流布の途上に逝《ゆ》いた同志や家族、縁ある方々に対し、最大の感謝を込めて、追善回向の題目を送っていきたい。
 回向とは、自分自身が仏道修行で積んだ功徳善根を、他者に回《めぐ》らし向けることである。私たちが毎日の勤行と学会活動に励むこと自体が、尊い追善回向の儀式となる。
 愛する方々と死別した悲しみは、容易に癒えるものではない。だが、生きている時も、四六時中、一緒にいられるわけではないであろう。
 ところが、妙法で結ばれた故人の生命は、瞬時も離れず、わが胸奥に一体不二である。自分が朗々と唱えゆく題目が、そのまま故人を福徳で包みゆく力となる。自分が希望に燃えて前へ踏み出すことが、故人の未来を照らしゆく光となるのだ。
 亡くなられた方々も、生きている方々も、共に歓喜し幸福になる。これが、偉大なる仏法の追善回向の本義である。
護り支える誇り
 日本は今、急速な高齢社会を迎え、介護に当たる方も多い。老老介護などの現実も深刻であり、地域をあげ、社会全体で知恵を合わせ、力を合わせていくべき最重要の課題である。
 時代の変化に呼応し、学会の男子部は、介護・福祉に従事する集い「妙護グループ」を発足し、社会貢献の人生を誇り高く歩んでくれている。
 介護の心労は計り知れない。その人知れぬ苦闘を描いた名作に、アメリカのエレナ・ポーターの『スウ姉さん』がある。
 主人公のスウ姉さんは、母親を亡くして、父親の介護や弟妹《きょうだい》の世話などに追われ、自らの夢も、諦めざるを得なかった。
 だが、その中で「いちばんの幸福は人に頼られ、人から求められること」と目覚めるのだ。皆に愛情と励ましを贈り続けるという生きがいに──。
 尊き生命を護り支える労苦は、何と尊貴な輝きを放っていることか。
 日蓮大聖人は、家族の介護に尽くした女性を労い、讃えられる御聖訓も留めてくださっている。
 ともあれ、三世永遠の次元から、「陰徳あれば陽報あり」(御書1178㌻)との因果の理法を深く確信していきたい。
広布の大理想へ
 現代は「死を忘れた文明」といわれる。生死という苦悩から目を逸《そ》らすことは、生命軽視の温床となり、ひいては人間への無関心を助長する。
 私が入信間もなく拝して、深く胸を打たれた「如説修行抄」には、「代は羲農《ぎのう》の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理《ことわり》顕れん時を各各御覧ぜよ」(同502㌻)と仰せであられる。
 日蓮大聖人は、戦乱のない平和世界、災難にも負けない民衆の連帯、そして人類が生死の苦悩を打開し、幸福長寿の人生を謳歌しゆく時代を志向されて、広宣流布の大理想を私たちに託してくださったのである。
 私たちが友に語る仏法哲理こそ、生死の闇を照らす太陽となる。私たちが広げる助け合いの絆こそ、共生の社会建設の土台となるのだ。
 本年は第1次世界大戦の勃発から100年。今こそ、人類の宿命を転換し、「平和の100年」を創り開いていく時である。
 生命尊厳の思潮を全地球に広げる主役は我ら!
 誉れも高く、自他共の幸福を築きゆく、正しき人生の道を前進しよう!
 地域の同志と、仲良く朗らかに、励まし合いながら! 世界の同志と、希望のスクラムも固く!
 生命の
  生老病死
   鍵 持てり
  常楽我浄の
    世界 開けや
 トインビーの言葉は『続・未来を生きる トインビーと“あなた”の対話』(毎日新聞社)。ポーターは『スウ姉さん』村岡花子訳(河出書房新社)。