【第16回】 マンガ家 手塚治虫 (2015.7.1)

 
まもなく、楽しい夏休みだね。
夏の伝統行事となった「きぼう作文コンクール」と「少年少女希望絵画展」の応募も、今月からスタートします。絵画展は、今年で30回目を迎えます。これまで展示された作品は、日本でも世界でも、感動を広げました。
少年少女部のみなさんは世界の希望です。だから、その作品は国や言葉のちがいをこえて、見る人に希望をおくることができます。
そんな「絵の持つ力」を思うぞんぶん、はっきしたのが、マンガ家の手塚治虫さんです。手塚さんは、日本初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」をはじめ、「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「ブラック・ジャック」「火の鳥」「ブッダ」など、700あまりの作品を生み出しました。みなさんのお父さんやお母さん、あるいはおじいさんやおばあさんも、読んだことがあるかもしれません。
手塚さんは多くのマンガ家に影響を与えています。「ドラえもん」の作者である藤子・F・不二雄さんも、手塚さんにあこがれてマンガ家になった一人です。
 
手塚治虫さんは、私と同じ1928年(昭和3年)の生まれです。
子どものころは、やせていて、髪の毛にくせがあってチリチリでした。しかも当時は、まだメガネをかけている子どもがめずらしかったこともあり、いじめにあいました。お母さんにはげまされ、乗り越えていきましたが、この時のくやしさは、大きくなっても忘れられませんでした。いじめは、絶対にしても、させてもいけません。
手塚少年が、いじめに負けないための “武器” になったのが「マンガ」でした。マンガは良くないものと決めつけられていた時代でしたが、手塚少年を元気づけるために、お母さんがたくさん買ってきてくれたのです。
それだけでなく、お母さんは、そのマンガを楽しく読み聞かせてくれました。手塚少年もまた、マンガを何度も読んで、絵もセリフも全部、暗記してしまうほど大好きになりました。
そうして家にマンガ本が、たくさんたまっていくと、それを読みたくて、いじめっ子たちが手塚さんの家で遊ぶようになりました。すると、いじめもなくなったのです。
手塚少年は、自分でもマンガをかきはじめ、みんなに見せてよろこばせるようになりました。自分にしかない「宝物」を見つけたのです。
手塚さんは後に、いじめの経験を作品に生かしています。自分のくせ毛は、「鉄腕アトム」のトレードマークの髪形になり、日本中、世界中の子どもたちのヒーローになりました。ちょっと人とちがって、目立ってしまう子を、マンガの主人公にしたのです。
手塚さんには、 “子どもは、みんなそれぞれ、すばらしい宝物を持っている。ダメな子や悪い子は一人もいない” という信念がありました。私も、まったく同じ気持ちです。
 
手塚少年がマンガ家になれたのは、たくさんの人の応援のおかげでした。
その一人が小学3年生の時の担任の先生です。作文の先生でもあり、作文は “文章や字がへたでも、たくさん書くこと” “自分の言いたいことを全部書くこと” が大切だと教えました。
手塚少年は、多い時には原稿用紙で50枚も書きました。たくさん書けば、自然とアイデアがわいてくるものです。手塚さんも作文を書くことで、物語を作ることの楽しさを知りました。この先生はマンガのことも応援してくれ、そのおかげで手塚少年は自信をもって、どんどんマンガをかけたのです。
その後、マンガ家になるかどうか迷った時、応援してくれたのは、お母さんでした。
みなさんも、お父さんやお母さん、先生方をはじめ、たくさんの人が応援し、支えてくれています。困った時も、一人でなやんでいないで、どんどん相談していくことです。そうすれば、必ず道が開けていきます。
 
手塚さんは、小学生のみんなに「夢は2つ以上持ってください」と語ったことがあります。
夢が1つしかないと、その夢がやぶれた時にざせつしてしまう。でも、夢が2つ以上あれば、そうならないで安心だからです。
手塚さんもマンガ家以外にも、医者や昆虫学者になる夢を持っていました。マンガ家となって6年後に、医師になる試験にも合格しています。
世界の文学や科学の本、落語の本など、たくさんの本を読んだことが、マンガの物語をつくる力になり、いろんな夢を広げるきっかけになりました。
夢は、与えられるものではありません。自分の好きなこと、興味のあることから見つけ出すものです。いろいろなことに挑戦していけば、自分の「夢のつばさ」を大きく広げることができます。
 
ところで、手塚さんの本名は「治」といい、「治虫」という名前はペンネームです。どうして、「虫」の字が入っているのでしょうか。
手塚さんが育った兵庫県宝塚市には、豊かな自然がありました。手塚少年は「昆虫採集」が大好きで、友だちと林や公園などへ出かけては、虫取りをしたそうです。そんな中で、図鑑を広げてみると、自分の名前によく似ている「オサムシ」という昆虫を見つけました。これが、ペンネームのもとになったのです。
虫たちは、手塚少年につかまっても、その手の中で一生けんめい、もがいていました。
みんな生きている。生きようとしている! ――小さな「いのち」から、大きな感動をもらいました。
しかし、大切な「いのち」が次々と失われてしまう時代が、すぐそこに、せまってきました。
戦争の時代です。手塚さんや私が13歳の時にはじまった太平洋戦争は、やがて激しさを増しました。学校も授業が行われず、兵器工場などへ働きにいかなければなりませんでした。その働きにいった先で、手塚さんは空襲にあいました。空から爆撃機が、雨のように爆弾を落とし、まわりは火の海となって、大勢の人が亡くなりました。
「いのち」ほど尊いものはありません。その「いのち」を傷つけ失う戦争ほど、ざんこくなものはない。おろかなものはありません。この「いのちの大切さ」を、手塚さんはマンガにかき続けていったのです。
私は先後、戸田城聖先生と出会い、先生の出版社で少年雑誌「冒険少年」の編集長をまかされました。この「冒険少年」を手塚さんも読んでくださっていて、後に「自分から、ぜひ、かきたいと思った雑誌は、当時はこの本(冒険少年)くらいだった」と話されていたそうです。戦争で心が傷ついた子どもたちに、夢や希望をおくりたい、日本一の雑誌にしたいという熱意が伝わったのかもしれません。その後、この心を受け継ぐ潮出版社の雑誌に、マンガを連載してくれました。
1982年には、埼玉で行われた学会の世界平和文化祭に出席して、青年の演技を「世界平和の縮図」とたたえてくださいました。
手塚さんは、「ぼくたちは、かけがえのない地球に “同乗” している仲間です」と言っています。そして、何よりも子どもたちを大事にしようと呼びかけていました。なぜなら、宇宙ステーションで生まれ育つような未来を生きる子どもたちは、 “将来、地球のためにいい考えをもってきてくれる人” と信じていたからです。
私も、これからの地球を担いゆくみなさんを「未来からの使者」と呼び、その活躍を心から期待しています。
みなさん方一人一人には、限りない可能性の宝物があり、かぎりない力があります。かぎりない未来があり、かぎりない使命があります。
この夏のみなさんの元気いっぱいの挑戦を、楽しみにしています!
 
手塚治虫の言葉は、 高木まさき監修 『時代を切り開いた世界の10人 レジェンドストーリー 4巻 手塚治虫』 (学研教育出版)、平田昭吾根本圭助会津漫画研究会共著 『日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ 手塚治虫と6人』 (ブティック社)、手塚治虫著 『ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ』 (光文社)から。一部表記を改めました。参考文献は、手塚治虫著 『ぼくのマンガ人生』 (岩波書店)、手塚治虫著 『ぼくはマンガ家』 (毎日ワンズ)、中尾明著 『手塚治虫』 (講談社)、国松俊英著 『手塚治虫』 (ポプラ社)ほか。