六巻抄

「六巻抄」 とは、大石寺第二十六世日寛上人が著されたもので、三重秘伝抄第一、文底秘沈抄第二,依義判文抄第三、末法相応抄第四、当流行事抄第五、当家三衣抄第六の六巻からなるので、六巻抄という。

 日寛上人は、日蓮大聖人滅後約四百年間に発生した邪義をことごとく打ち破り、日蓮大聖人の仏法を内外に宣揚したのである。
 「此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の狐兎(こと)一党して当山に襲来すといえども敢(あえ)て驚怖するに足らず尤(もっと)も秘蔵すべし」(富要五巻355P) と仰せられており、“破邪顕正の書” と言われています。

 如何なる宗教も時の経過とともに、祖師の精神を忘れ、権威化・形式化が起こってくる。このような状況になった時、仏教では必ず正統の正師が出現して、その誤りを正して、仏教の正義を宣揚し、その時代と民衆を救済したのである。

 インドでは、釈尊滅後の弟子たちは、出家中心の上座部と在家中心の大衆部に分かれて行った。上座部(小経教)は保守化と権威主義化を強め、そのために釈尊は神格化されて、人々から遠くかけ離れたものになってしまった。
 そこで、大乗仏教を信奉する民衆の間から、仏教を民衆の手に取り戻そうとする革新運動が勃興した。この運動の中から、釈尊の出世の本懐である 「法華経」 の編纂がなされた。
 そして、竜樹菩薩は中論・大智度論を、天親菩薩は唯識論等を作り、小乗教を破折し大いに大乗教を宣揚した。
 
 中国では、天台大師が南三北七(揚子江流域に三派、黄河流域に七派)の各宗派の邪義を破折して、一代聖教を五時八教に立て分け、法華経最第一の正義を宣揚し、一念三千の珠を取り出だした。

 日本では、伝教大師桓武天皇の御前で、南都(奈良平城京)六宗の碩徳(せきとく)と公場対決を決し、「法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒(けんどく)尸那(しな)一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる、されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」(264P) と仰せです。これにより、平安朝の絢爛たる仏教文化の華が開きました。
 
 日蓮大聖人は、釈迦仏法の功徳が無くなった、末法の時代に御生誕なされました。民衆は念仏等の邪宗の害毒に染まり、苦悩に喘いでいました。民衆救済の大願に立たれ、その不幸の根源は邪宗・邪義にありと、「四箇の格言」 を以って諸宗を破折いたしました。
 そして釈尊の正意は法華経にありと。しかしまた、末法の正法は、法華経の文底に秘沈された妙法、すなわち 「三大秘法の南無妙法蓮華経」 であり、これを御本尊として御図顕して下さいまして、末法衆生に与えて下さいました。この大慈悲心によって、一切衆生の成仏が可能となったのであります。

 大聖人滅後、弟子たちは各々自説を立てて分裂して行きました。ご正意に反するそれらの邪義が出尽くした後に、日寛上人はご出現になり、従来、行われていた迷論・妄説をことごとく破折した。
 日蓮仏法は、釈迦仏法の範疇を超えた画期的な仏法であり、それ故に、直弟子とか高僧と言われる者からして、解からなかったのである。
 かつて、大石寺には京都の要法寺から第15世~23世まで、9代に亘って法主を受け入れている。要法寺は京都の軟風にかぶれ、釈迦を本尊と立て造仏読誦を行っていた。現に17世日精は釈迦像の造立を行っている。このように正統を名乗る大石寺からして、何が大聖人の正義の法門なのか解かっていなかったのである。
 ここに不思議にも、日寛上人がご出現になり、ことごとく邪義妄説を破折し、日蓮仏法の “文底独一本門の久遠名字の妙法” を根底から明らかになされ、我われに教えてくださいました。日寛上人のご出現が無かりせば、日蓮仏法といえども、闇のなかに消えてしまったであろうと思うものである。

 私は昭和34年に教学部助師になりました。助師の教学研究会があり、その教材が 「三重秘伝抄」 でありました。もともと、国語や古文については勉強不足で、その上いきなり江戸時代の文献である。何がなんやら、訳の分からない思いをしたものである。

 ここ25年ぐらい組織内では、教学の教材として 「六巻抄」 は取り上げられていません。何故だろうかなぁ! と自分なりに考えてみました。
 
 まず何といっても、日寛上人は日蓮正宗の第26世の法主である。宗門と義絶している今、下手に宗門の古文書を研鑚させると、宗門側になびいたり、引き抜かれたりする者が出てくる可能性がある。これでは何のための教学か、“ミイラ取りがミイラになる” ようなものである。

 次に、世界広布を推進するうえで、SGIの海外の友にとって、権実相対や四箇の格言とか旧仏教のことを言ったって、元から、やっていないのだから無関係である。
 また、日本の若者たちも、家の宗教が何宗であるかも知らず、魅力も感じず無関心な状態である。もう既に権教・権宗は時代遅れの遺物なのである。
 しかし、そうであるから寧ろ、宗教の邪正・勝劣を厳しく判釈する 「三重秘伝抄」 ぐらいは教えても良いのではないかと思っています。

 これからは、日蓮大聖人の大仏法を研鑚しなければならない。それは法華経に込められている、生命の尊厳観、三乗のそれぞれの立場を超えて、一乗の普遍的視点に融和させる理などは、今世紀の混乱する地球社会を、平和・共存に導く大哲理であるからである。
 ますます、地涌の菩薩の使命を痛感する次第である。