六難九易

法華経の宝塔品には、末法において御本尊を受持することの難しさを、六つの難しいことと九つの易しいことを、対比させて説明しています。

 六つの難しいこととは、
(一)仏の滅後に悪世のなかで、法華経を説くこと。
(二)仏の滅後に法華経を書き、人に書かせること。
(三)仏の滅後に悪世のなかで、暫らくの間でも法華経を読むこと。
(四)仏の滅後に一人のためにも、法華経を説くこと。
(五)仏の滅後に法華経を聴受して、その義趣を質問すること。
(六)仏の滅後によく法華経を受持すること。

 九つの易しいこととは、
(一)法華経以外の無数の経を説くこと。
(二)須弥山をとって他方の無数の仏土に擲(な)げ置くこと。
(三)足の指で大千世界を動かして、遠くの他国に擲げること。
(四)有頂天に立って、無量の余経を説法すること。
(五)手に虚空・大空をとって遊行すること。
(六)大地を足の甲の上に置いて、梵天に昇ること。
(七)枯草を負って、大火に入っていっても焼けないこと。
(八)八万四千の法門を演説して、聴者に六通を得させること。
(九)無量の衆生に阿羅漢位を得させて、六神通をそなえさせること。

 九易といっても、不可能と思えるほどの大難事であるが、それでも滅後・末法法華経を受持することから比べれば、容易なことであるというのである。

 九易の中で(二・三・五・六・七)は、物理的なことであり、現在では、科学技術の発達によって、可能になりつつあります。
 後の(一・四・八・九)は、教理的なことであり、一見同じように難しく思われますが、法華経以外の経、たとえば、八万四千の法門(総じて音楽・スポーツ等も入ると思います)等の公演や競技場で、数万の人々を熱狂的に陶酔させておる姿を想えば、これらは易きことであると、御理解願えると思います。

 では何故、法華経がかくも難しいかといえば、池田先生は次のようにご指導されています。

 名誉会長 イデオロギーというと難しくなるけど、どんな社会であれ、またいかなる時代であれ、そこには必ず人々の意識を支えている世界観なり、価値観がある。それと抵触するものが現れると、反動が起きるというのは古今東西変わることがない。
 ………
 法華経とは 「生命変革の法」 であり、煎じつめれば 「元品の無明」 を克服するための大法です。「元品の無明」 とは、生命にもともと具わる 「根本的な迷い」 です。
 これには、いろいろな観点があるが、日蓮大聖人は 「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997P) と仰せです。
 (法華経智慧第3巻・68P)
  
 法華経を弘通することは 「元品の無明」 との戦いであり、それゆえに何よりも 「難しい」 のです。また、それは 「第六天の魔王」 との戦いでもあるゆえに、「難」 が起きるのです。 
 
 名誉会長 ともかくポイントは 「外面世界を動かす」 よりも 「内面世界を変える」 ほうが難しいということです。このことを 「六難九易」 は教えているとも言える。(同・72P) と指導されています。

 『開目抄』 に、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」(223P) と仰せです。

 大聖人は、末法の御本仏であらせられる。一切経を読まなくとも、一切経の仏菩薩が大聖人に随って、かつ一切経の功徳が集まり、法華経の行者を守護するのである。
 池田先生のもと地涌の菩薩の自覚にたって、日夜広宣流布のために戦っている創価学会員は、この六難九易を弁えている方々であります。必ずや、大宇宙の仏菩薩が来って、我らを守護することは間違いありません。