難信難解 (草木成仏)

前に 「難信難解」 を世間の事象に寄せて述べてみましたが、もう少し、教理的に述べてみたいと思います。

 日蓮大聖人は、「天台の難信難解に二あり、一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり」(御書239P) と仰せられています。

 教門の難信難解とは、爾前経の教えと法華経の教えが、全く相反しており、一仏が二言となり水火の如き関係になって、誰人も信ずることができないのである。

 爾前経では、二乗(声聞・縁覚)・一闡提(不信・謗法) の者、及び、悪人・女性も絶対に成仏しないと説かれていたが、法華経の迹門にいたって、劫・国・名号等の成仏の記を授けられたのである。

 また、爾前・迹門までは、始成正覚・すなわち、十九歳で出家し、三十歳で、伽耶城近くの菩提樹の下で成仏したと説いてきたのだが、法華経の本門寿量品にきたって、実は五百塵点劫という久遠に成道していたと、久遠実成を顕わし、九界の衆生も仏と共に永遠の生命であることを明かしたのである。

 観門の難信難解とは、「百界千如・一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり」(御書239P) と仰せです。
 これは一念三千の法門自体が、難信難解であるということである。特に非情にも仏性があるとすることである。

 「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」(御書239P) とあり、一個の小石にも仏性があり、成仏するというのである。これを信じられない者は、わが耳を惑わし・心を驚かすのである。

 伝教大師云く 「此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」(御書245P)  随自意とは、仏自らの内証の悟りそのままを説き示した経なる故に、衆生にとっては難信難解なのである。

 このように法華経と爾前経との差は、一仏二言・水火天地ほどの差があり 「難信難解」 でありますが、法華経への信・不信のみが、自身の成仏・不成仏を決定するのであります。