日寛上人

 「六巻抄」の著者である「日寛上人」について、もう少し述べてみたいと思います。それは何といっても、ご臨終のお姿の素晴らしさである。
 日寛上人は、享保十一年(1726年)正月、江戸の常在寺で信徒の要望に応えて 「観心本尊抄」 を講義した。講義満了の日に日寛上人は、

  「いま日寛が富楼那(ふるな)の弁を得、目連の神通力を現じて仏法の肝要を述べたとしても、言うところが後に誤りとわかれば信ずるに足りないであろう。そこでここに一つの予言をしておこう。私はソバが好きだ。臨終のときにソバを食べて一声大いに笑い、題目を唱えて死ぬであろう。もしそのとおりになったら、私が説いた一文一句も疑惑を生じてはならない」 と述べ、三月、大石寺に帰った。
 そして五月のころから急速に衰弱し、弟子が心配して薬をすすめたが服用せず、ひたすら臨終の準備を整えた。七月下旬、学頭日詳に法を相承し、滅後の諸事を遺言した。
 この時、日詳が薬をすすめたが服さず、「深く考えるところがあって、医療を用いないのである。当山は今、年を追って繁栄し、観解が倍増している。まさに三類の強敵が競い起るであろう。私はこの春以来、災いを攘(はら)うことを三たび三宝に祈願した。それゆえに仏天はあわれみを垂(た)れたまい、私自身の病魔をもって法敵に代えられたのである。これこそ転重軽受なのであるから決して憂えてはならない」 と明かした。
 八月十六日、法衣を著し、駕籠(かご)に乗り、本堂に詣で誦経唱題し、廟所に参詣し、日宥の隠居所、学寮に寄って、暇乞いをすませた。十八日夜、大曼荼羅を掛け、香華、灯明を捧げ、侍者に向かって種々の用心を教え、最期に末期の一偈(げ)一首をしたためた。

 本有の水風、凡聖常に同じ
 境智互に薫(くん)じ、朗然(ろうねん)として終に臨む

 末の世に 咲くは色香は 及ばねど
  種は昔に 替(かわ)らざりけり


 書き終わって 「ソバをつくってもらいたい。冥途(めいど)の出立によかろう」 と語り、七箸(ななはし)食して 「ああ面白や、寂光の都は」 といい、それから大曼荼羅に向かい、一心に合唱して題目を唱え、半眼半口にして眠るように遷化。享保十一年八月十九日の朝であった。
  (仏教哲学大辞典より)

 人は誰しも、自分の臨終の状況を予測するなんて、至難のわざで凡人の到底なし得ることではない。しかし、日寛上人は、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」 (文段集・548P)の金言を、ご自身で証明なされました。

 これと同じようなことが、法華経を漢訳した羅什三蔵の故事にあります。羅什はつねづね、自分の訳した経に誤りがない証拠として、死んで火葬した時に、身は灰となっても、舌だけは焼けずに残ると予言していた。そして、その通りになったので、羅什訳の 「妙法蓮華経」 はやすやすと漢土に広まったのである。

 したがって、日蓮大聖人の “三大秘法の御本尊” を、正しく受持し、信心修行に励めば、成仏得道は絶対に間違いないことを、日寛上人はご自身の実体験で、我われにご指導してくださいました。
 現在、有り難いことに、創価学会員受持の御本尊は、日寛上人御書写の御本尊である。