第43回「SGIの日」記念提言上(1面から続く) 世界人権宣言の起草に込められた差別なき社会への思い 2018年1月26日

 
 
 
第43回「SGIの日」記念提言上(1面から続く) 世界人権宣言の起草に込められた差別なき社会への思い 2018年1月26日
 
 
きょう26日の第43回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、SGI会長である池田大作先生は「人権の世紀へ 民衆の大河」と題する記念提言を発表した。
 
提言ではまず、今年で世界人権宣言の採択70周年を迎えることを踏まえ、起草に尽力したハンフリー博士やアパルトヘイト(人種隔離)撤廃のために戦い抜いたマンデラ元大統領との交流を振り返りつつ、人権の礎は“同じ苦しみを味わわせない”との誓いにあると強調。
排他主義を食い止めるための鍵として、仏法の生命論や牧口常三郎初代会長の思想に触れながら、青年に焦点を当てた人権教育を進めることを提唱している。
また、アメリ公民権運動の歴史に言及し、差異を超えた連帯で時代変革の挑戦を前に進め、その喜びを分かち合う生き方に、人権文化の紐帯はあると訴えている。
続いて、昨年7月に122カ国の賛成を得て国連で採択された核兵器禁止条約の意義に触れ、唯一の戦争被爆国である日本が核依存国の先頭に立って、核兵器禁止条約への参加に向けた意思表明を行うよう呼び掛けている。
また、年内の採択が目指されている、難民と移民に関するグローバル・コンパクトで、「子どもたちの教育機会の確保」を各国共通の誓約にすることを提案。高齢化の問題を踏まえて、「高齢者人権条約」の交渉開始と、第3回「高齢化世界会議」を日本で開催することを提唱している。
最後に、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の前進に向け、日本と中国が連携して「気候保全のための日中環境自治体ネットワーク」を形成することや、国連で「女性のエンパワーメントの国際10年」を制定することを訴えている。(㊦は次号に掲載予定)
昨年は、平和と軍縮を巡るターニングポイント(転機)の年となりました。
国連での交渉会議を経て、核兵器禁止条約がついに採択されたのです。
7月の採択以来、50カ国以上が署名しており、条約が発効すれば、生物兵器化学兵器に続く形で、大量破壊兵器を禁止する国際的な枠組みが整います。
そもそも、核兵器を含む大量破壊兵器の全廃は、国連創設の翌年(1946年1月)、国連総会の第1号決議で提起されたものでした。以来、光明が見えなかった難題に、今回の条約が突破口を開きました。しかも、被爆者をはじめとする市民社会の力強い後押しで実現をみたのです。
その貢献を物語るように、条約制定を求める活動を続けてきたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)にノーベル平和賞が贈られました。
先月の授賞式で、ベアトリス・フィン事務局長に続いて演説したサーロー節子さんは、広島での被爆体験を通し、「人類と核兵器は共存できない」「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪」と訴えました。
フィン事務局長は今月、日本を訪問し、創価学会の総本部にも来訪されましたが、演説に込められた思いは、発足まもない頃からICANと行動を共にしてきたSGIの信念と重なるものです。
ひとたび敵対関係が強まれば、相手の存在を根本的に否定し、圧倒的な破壊力で消し去ることも厭わない――。核兵器を正当化する思想の根底には、人権の根本的な否定ともいうべき冷酷さが横たわっています。
私の師である創価学会戸田城聖第2代会長が、核開発競争が激化した冷戦の最中(57年9月)に「原水爆禁止宣言」で剔抉したのは、まさにその点でした。
抑止による平和の名の下に核の脅威が広がる中で、「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」(『戸田城聖全集』第4巻)と、世界の民衆の生存の権利を根底から脅かす核兵器の非人道性を指弾したのです。
その遺志を継いだ私は、半世紀前(68年5月)に行った講演で、当時、交渉が終盤を迎えていた核拡散防止条約(NPT)の妥結だけでなく、製造・実験・使用のすべてを禁止する合意の追求を呼び掛けました。
 
また私は、40年前、国連の第1回軍縮特別総会に寄せて、核廃絶と核軍縮のための10項目提案を行い、第2回の軍縮特別総会が開催された1982年にも提言をしました。
そして、翌83年から「SGIの日」記念提言の発表を開始し、これまで35年間にわたり、核兵器の禁止と廃絶への道を開くための提案を重ねてきたのです。
なぜ私が、これほどまでに核問題の解決に力点を置いてきたのか。
それは、戸田会長が洞察したように、核兵器がこの世に存在する限り、世界の平和も一人一人の人権も“砂上の楼閣”となりかねないからです。
SGIが核廃絶の運動を続ける中、交流を深めてきた団体の一つにパグウォッシュ会議があります。
その会長を昨年まで務めたジャヤンタ・ダナパラ氏も、核問題をはじめとする多くの地球的な課題に臨むには倫理的なコンパス(羅針盤)が欠かせないと強調していました。
「倫理的な価値観という領域と、現実主義的な政治の世界は大きくかけ離れており、決して接することはないと広く考えられているが、それは正しくない。
国連のこれまでの成果は、倫理と政策の融合は可能であることを示しており、平和と人類の向上に貢献してきたのは、この融合なのである」(IDN─InDepthNews 2017年1月23日配信)と。
今年で採択70周年を迎える世界人権宣言は、その嚆矢だったといえましょう。
そこで今回は、世界人権宣言の意義を踏まえつつ、地球的な課題に取り組む上で「倫理と政策の融合」を見いだすための鍵となる、一人一人の生命と尊厳に根差した「人権」の視座について論じたい。
 
ハンフリー博士の生い立ちと体験
第一の柱は、人権の礎が“同じ苦しみを味わわせない”との誓いにあることです。
国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、昨年、移民と難民を巡る問題を担当する特別代表のポストを新たに設けました。
現在、移民の数は世界で2億5800万人に達し、難民の数も増加の一途をたどる中、こうした人々に対して、ともすれば負担や脅威といったイメージばかりが先行し、排他的な風潮が強まっています。
特別代表に就任したルイーズ・アルブール氏は、「他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません」(国連広報センターのウェブサイト)と訴えていますが、問題解決の土台に据えねばならない点だといえましょう。
20世紀の歴史が物語るように、2度に及ぶ世界大戦において異なる集団への蔑視や敵意が扇動され、多くの惨劇が引き起こされてきたことを忘れてはならないからです。
国連創設の3年後(1948年12月)に採択された世界人権宣言は、こうした教訓に基づいて結実したものに他なりませんでした。
移民と難民の人々に対する差別をはじめ、現代のさまざまな人権問題を解決するためには、今一度、世界人権宣言の精神を想起し、確認し合うことが重要ではないでしょうか。
国連の初代人権部長としてその制定に尽力したジョン・ハンフリー博士と、以前(93年6月)、お会いしたことがあります。
世界人権宣言の意義などについて語り合う中、深く胸に残ったのは、博士自身が直面してきた差別や体験の話でした。
カナダ出身の博士は幼い頃、両親を病気で亡くし、自らもひどい火傷を負って片腕を失う悲劇に見舞われます。
兄や姉とも離れて生活し、入学した寄宿学校では、その生い立ちのために、いじめや心ない扱いを受け続けました。
大学卒業後、結婚をした翌月に起きたのが世界恐慌で、博士自身は仕事を続けら
れたものの、いたる所で見かける失業者の姿に胸が痛んでならなかったといいます。
また、1930年代後半にヨーロッパで研究生活を送った時には、ファシズムによる抑圧を目の当たりにし、一人一人の権利を国際法によって守る必要性を痛感したのでした。
博士はある時、「世界人権宣言について誇りに思うことは、市民的、政治的権利とともに経済的、社会的、文化的権利を入れることができたことです」と述懐していました。
こうした博士の生い立ちや体験が、世界人権宣言の草案をまとめる際に大きく影響したのではないかと思えてなりません。
実のところ、博士の功績は、20年に及ぶ国連の人権部長の仕事を終えた後も、長らく知られないままの状態が続きました。
博士が私に強調しておられたように、世界人権宣言はあくまで「多くの人の共同作業」で制定されたものであり、「“作者不明”であったところに、この宣言が、いくらかの威信と重要性をもてた理由があった」というのが、博士の考えだったからです。
それでも私は、博士から草案の復刻版をいただいた時、手書きの文字の一つ一つに、誰もが尊厳をもって生きられる社会の実現を願う“種蒔く人の祈り”が込められているのを感じてなりませんでした。
その心情を多くの人に伝えたいとの思いで、SGIでは「現代世界の人権」展などで、草案の復刻版を紹介してきたのです。
海外初の開催となったカナダのモントリオールでの同展の開幕式(93年9月)で、博士との再会を果たし、世界人権宣言の精神を未来に語り継ぐことを誓った時の思い出は、今も忘れることはできません。
 
獄中で培った確信
世界人権宣言が採択された48年は、一方で、南アフリカ共和国アパルトヘイト(人種隔離)政策が始まった年でもありました。
その撤廃を目指し、自らが受けた差別への怒りや悲しみを乗り越えながら前に進み続けたのがネルソン・マンデラ元大統領です。
初めてお会いしたのは、マンデラ氏が獄中生活から釈放された8カ月後(90年10月)でした。
青年時代に解放運動に立ち上がった思いを、マンデラ氏は自伝にこう綴っています(『自由への長い道(上)』東江一紀訳、NHK出版)。
「何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて、怒りが、反抗心が、同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた」と。
投獄によってさらに過酷な扱いを受けたものの、氏の心が憎しみに覆われることはありませんでした。
 
マンデラ氏が灯し続けた人間性に対する深い信頼
 
どんなに辛い時でも、看守が時折のぞかせる「人間性のかけら」を思い起こし、心を持ちこたえさせてきたからです。
 
マンデラ氏が灯し続けた人間性に対する深い信頼
すべての白人が黒人を心底憎んでいるわけではないと感じたマンデラ氏は、看守たちが話すアフリカーンス語を習得し、自ら話しかけることで相手の心を解きほぐしていきました。
横暴で高圧的だった所長でさえ、転任で刑務所を離れる時には、マンデラ氏に初めて人間味のある言葉をかけました。
その思いがけない経験を経て、所長が続けてきた冷酷な言動も、突き詰めていけば、アパルトヘイトという「非人間的な制度に押しつけられたもの」だったのではないかとの思いに行き着いたのです。
27年半、実に1万日に及ぶ獄中生活を通し、「人の善良さという炎は、見えな
くなることはあっても、消えることはない」(『自由への長い道(下)』)との揺るぎない確信を培ったマンデラ氏は、出獄後、大統領への就任を果たし、「黒人も白人も含めたすべての人々」の生命と尊厳を守るための行動を起こしていきました。
大勢の黒人が白人のグループに殺害され、黒人の間で怒りが渦巻いた時にも、型通りの言葉だけで融和を図ろうとはしませんでした。
ある演説の途中でマンデラ氏は、突然、後方にいた白人の女性を呼んで演台に迎え、笑みをたたえながら“刑務所で病気になった時に看病してくれた人です”と紹介しました。
問題は人種の違いではなく人間の心にある──その信念を物語る場面を目にし
た聴衆の雰囲気は一変し、復讐を求める声も次第に収まっていったのです。
この振る舞いは、自身を縛り続けてきた“非人間性の鎖”の重さが身に染みていた
からこそ表れたものではないでしょうか。
 
法華経に描かれた不軽菩薩の実践
私どもが信奉する仏法にも、マンデラ氏が抱いた「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消えることはない」との確信と響き合う行動を、どこまでも貫いた菩薩の姿が説かれています。
釈尊の教えの精髄である法華経に描かれている不軽菩薩の行動です。
不軽菩薩は周囲から軽んじられても、“自分は絶対に誰も軽んじない”との誓いのままに、出会った人々に最大の敬意を示す礼拝を続けました。
悪口を言われ、石を投げつけられても、“あなたは必ず仏になることができます”と声をかけることをやめなかった。
マンデラ氏が獄中でひどい仕打ちを受けても、人間性に対する信頼を最後まで曇らせなかったように、不軽菩薩はどれほど周囲から非難されても、相手に尊極の生命が内在していることを信じ抜いたのです。
“万人の尊厳”を説いた法華経に基づき、13世紀の日本で仏法を弘めた日蓮大聖人は、その行動に法華経の精神は凝縮しているとし、「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と述べました。
「仏」である釈尊の出世の本懐が、「人間」としての振る舞いにあったとは、逆説的に聞こえるかもしれません。
しかし、釈尊が人々の心に希望を灯したのは、超越的な力によるものではなく、目の前の人が苦しんでいる状態を何とかしたいという人間性の発露に他なりませんでした。
重い病気で寝たきりになった人に対し、周りが手をこまねいている時に、見過ごすことはできないと体を洗って励ましたのが釈尊であり、視力を失った人が衣服のほころびを直したいと思い、“誰か針に糸を通してもらえないだろうか”とつぶやいた時、真っ先に声をかけて、手を差し伸べたのも釈尊でした。
 
誰の身にも悲惨事を起こさせない
その一方で、頼みにしていた2人の弟子を亡くし、胸を痛めながらも自らを鼓舞して前に進むことをやめなかったのが釈尊であり、80歳を過ぎて体の無理がきかなくなったことを受け止めつつも、人々のために最後まで法を説き続けたのが釈尊だったのです。
失意の闇に沈む人がいれば寄り添い、辛い出来事があっても心に太陽を昇らせて、人々を励まし勇気づける──。
この人間・釈尊の振る舞いという源流があればこそ、法華経の“万人の尊厳”の思想は、生き生きとした脈動を現代まで保ち続けることができたのではないかと思えてなりません。
大乗仏教において、仏を「尊極の衆生」と名付けていたように、仏といっても、人間と隔絶した存在では決してない。
不軽菩薩のように、自己の尊厳に目覚め、その重みをかみしめながら、周りの人々を大切にする人間の振る舞いが、そのまま、仏界という尊極の生命の輝きを放ち始めるというのが、法華経の核心にある教えなのです。
大聖人は、この生命のダイナミズムを、「我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり」(御書413ページ)と説きました。
仏法には、苦難を抱えながらも、人々のために行動する一人一人の存在こそ、尊厳の光で社会を照らし出す当体に他ならないとの思想が脈打っているのです。
人権も同じく、法律や条約があるから与えられるものではないはずです。人間は本来、誰しもかけがえのない存在だからこそ、自由と尊厳が守られなければならないのです。
人権を守る法制度づくりに息吹を吹き込んできたのも、ハンフリー博士やマンデラ元大統領のように、差別や人権侵害に見舞われながらも、“この辛い思いを誰にも味わわせてはならない!”と、社会の厳しい現実の壁を一つまた一つと打ち破ってきた人たちの存在だったのではないでしょうか。
 
厳しい弾圧の中で貫き通した信念私どもSGIの平和運動の源流は、第2次世界大戦中に日本の軍部政府と戦い抜いた、創価学会牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の信念の闘争にあります。
牧口会長は20世紀初頭に著した『人生地理学』で、植民地支配の広がりによって世界の多くの民衆が苦しんでいる状況に胸を痛め、「競いて人の国を奪わんとし、之がためには横暴残虐敢て憚る所にあらず」(『牧口常三郎全集』第1巻、第三文明社、現代表記に改めた)と警鐘を鳴らしました。
また、日本が軍国主義への傾斜を強め、その影響が教育にも色濃く及ぶ中で、1930年に『創価教育学体系』を世に問い、子どもたちの幸福と社会全体の幸福のために価値創造の力を養うことに教育の目的があると訴え、自ら実践の先頭に立ち続けました。
その信念は、国家総動員法=注1=が敷かれ、「滅私奉公」のスローガンの下、政治や経済から文化や宗教にいたるまで統制が進んだ時も変わることはなく、「自己を空にせよということは?である。自分もみんなも共に幸福になろうというのが本当である」(同第10巻、現代表記に改めた)と、軍部政府の方針に痛烈な批判を加えたのです。
思想弾圧によって機関紙が廃刊を余儀なくされ、会合に特高刑事の監視がつくようになっても、一歩も退かずに声を上げ続けた結果、牧口会長は43年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で弟子の戸田理事長(当時)らと共に逮捕されました。
表現の自由」「集会の自由」「信教の自由」のすべてが奪われ、投獄までされながらも、牧口会長は最後まで信念を曲げることなく、獄中で73年の生涯を終えたのです。
マンデラ元大統領の忘れ得ぬ言葉に、新しい世界を勝ち取る人間とは腕組みをした傍観者などではなく、「暗澹たるときでも真実を見限ることなく、あきらめることなく何度も試み、愚弄されても、屈辱を受けても、敗北を喫してもくじけない人」であるとあります(『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』長田雅子訳、明石書店)。
獄中で生涯を閉じたという事実だけを見れば、牧口会長の信念は結実をみなかったように映るかもしれません。
しかし、その信念は、獄中闘争を共に貫いた戸田第2代会長に厳然と受け継がれ、途絶えはしなかったのです。
冷戦が深まる中で朝鮮戦争が起きた時、戸田会長の心を占めていたのは、「戦争の勝敗、政策、思想の是非」といった国際政治の次元で語られる関心事ではありませんでした。
「この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親をさがす民衆が多くおりはしないか」と憂慮し、「人民がいくところがない。楽土にたいする希望がないほど悲しきことはない」(『戸田城聖全集』第3巻)と述べたように、その思いは牧口会長と同じく、何よりも民衆の窮状に向けられていたのです。
56年にハンガリー動乱が起きた時にも、その眼差しは変わりませんでした。
政治的な経緯もさることながら、「国民が悲痛な境遇にあることだけは察せられる」とし、「ただ、一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたい」と、時代変革の波を民衆の行動で起こすことを固く誓ったのです。
 
誰の身にも悲惨事を起こさせない
 
こうした信念に基づき、どの国の民衆も踏み台にされることのない世界を築く「地球民族主義」を提唱した戸田会長が、絶対に見過ごすことのできない一凶と捉えていたのが、民衆の生存の権利を根底から脅かす核兵器の問題に他なりませんでした。
であればこそ戸田会長は逝去の7カ月前に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器の禁止と廃絶への道を切り開くことを、当時、青年だった私たちに託したのであります。
 
一人一人の生命と尊厳を守り抜く
このように、二人の先師にとって世界平和の追求は、国家間の緊張解消や戦争の防止にとどまらず、民衆一人一人の生命と尊厳を守り抜くことに主眼がありました。
SGIが核兵器禁止条約の制定を目指す中で、「生命の権利」を守る人権アプローチを重視してきたのは、牧口会長と戸田会長の精神を受け継いだものだったのです。
その意味でも、禁止条約が軍縮に関するものでありながら、国際人権法の精神を宿していることに深い意義を感じてなりません。
条約の最大の特色は、核兵器を禁止する理由として「すべての人類の安全」への危険性を挙げ、被害を受ける“人間”の観点を条約の基礎に据えていることにあります。
また、条約に関わる主体として、国家だけでなく、市民社会の役割の重要性を明確に位置付けていることです。
歴史を振り返れば、国際社会における個人の存在を、同情の対象ではなく権利の主体として位置付けるきっかけとなったのは、「われら人民」の言葉で始まる国連憲章であり、「すべての人」という主語を掲げる条文などで構成された世界人権宣言でした。
核兵器禁止条約でも、自らの被爆体験を通して核兵器の非人道性を訴え続けてきた行動の重みをとどめるべく、「被爆者」の文字が前文に刻まれています。
禁止条約の交渉会議で、市民社会の代表が座っていた席は議場の後方でした。
しかし、ある国の代表が、市民社会は“尊敬の最前列”にあったと語ったように、禁止条約を成立させる原動力となったのは、広島と長崎の被爆者や核被害を受けた世界のヒバクシャをはじめ、心を同じくして行動を続けてきた市民社会の声だったのです。
SGIもその連帯に連なり、ICANとの共同制作による展示を通した核兵器の非人道性に関する意識啓発や、国連への作業文書の提出などを通して、核兵器禁止条約の制定プロセスに深く関わってこられたことは、大きな喜びとするところであります。
平和や人権といっても、一足飛びに実現できるものは何一つありません。
“自らが体験した悲惨な出来事を誰の身にも起こさせない”との誓いが平和と人権を守る精神的な法源となり、市民社会の間で行動の輪が大きく広がる中でこそ、一人一人の生命と尊厳を守る法律や制度の基盤は固められていくのではないでしょうか。
 
国と国をつなぐインフラの構築
次に第二の柱として挙げたいのは、分断を乗り越える人権教育の重要性です。
近年、移民と難民の急増に伴う入国管理の強化や資源の領有に関する係争など、国境を巡る問題がさまざまクローズアップされるようになってきています。
一方で、それとは正反対の動きが勢いを増していることが注目されます。
多くの国を直通で結ぶ鉄道をはじめ、国をまたいだ電力供給網やインターネットの海底ケーブルの敷設など、共通インフラの整備が広がっていることです。
最新の研究によると、これまで敷設された海底ケーブルは約75万キロ、鉄道は約120万キロといったように、その長さは、世界の国境線の総計である25万キロをはるかに上回る規模になっています。
 
その一方で、頼みにしていた2人の弟子を亡くし、胸を痛めながらも自らを鼓舞して前に進むことをやめなかったのが釈尊であり、80歳を過ぎて体の無理がきかなくなったことを受け止めつつも、人々のために最後まで法を説き続けたのが釈尊だったのです。
失意の闇に沈む人がいれば寄り添い、辛い出来事があっても心に太陽を昇らせて、人々を励まし勇気づける──。この人間・釈尊の振る舞いという源流があればこそ、法華経の“万人の尊厳”の思想は、生き生きとした脈動を現代まで保ち続けることができたのではないかと思えてなりません。
大乗仏教において、仏を「尊極の衆生」と名付けていたように、仏といっても、人間と隔絶した存在では決してない。
不軽菩薩のように、自己の尊厳に目覚め、その重みをかみしめながら、周りの人々を大切にする人間の振る舞いが、そのまま、仏界という尊極の生命の輝きを放ち始めるというのが、法華経の核心にある教えなのです。
大聖人は、この生命のダイナミズムを、「我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり」(御書413ページ)と説きました。
仏法には、苦難を抱えながらも、人々のために行動する一人一人の存在こそ、尊厳の光で社会を照らし出す当体に他ならないとの思想が脈打っているのです。
人権も同じく、法律や条約があるから与えられるものではないはずです。
人間は本来、誰しもかけがえのない存在だからこそ、自由と尊厳が守られなければならないのです。
人権を守る法制度づくりに息吹を吹き込んできたのも、ハンフリー博士やマンデラ元大統領のように、差別や人権侵害に見舞われながらも、“この辛い思いを誰にも味わわせてはならない!”と、社会の厳しい現実の壁を一つまた一つと打ち破ってきた人たちの存在だったのではないでしょうか。
 
厳しい弾圧の中で貫き通した信念
私どもSGIの平和運動の源流は、第2次世界大戦中に日本の軍部政府と戦い抜いた、創価学会牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の信念の闘争にあります。
牧口会長は20世紀初頭に著した『人生地理学』で、植民地支配の広がりによって世界の多くの民衆が苦しんでいる状況に胸を痛め、「競いて人の国を奪わんとし、之がためには横暴残虐敢て憚る所にあらず」(『牧口常三郎全集』第1巻、第三文明社、現代表記に改めた)と警鐘を鳴らしました。
また、日本が軍国主義への傾斜を強め、その影響が教育にも色濃く及ぶ中で、1930年に『創価教育学体系』を世に問い、子どもたちの幸福と社会全体の幸福のために価値創造の力を養うことに教育の目的があると訴え、自ら実践の先頭に立ち続けました。
その信念は、国家総動員法=注1=が敷かれ、「滅私奉公」のスローガンの下、政治や経済から文化や宗教にいたるまで統制が進んだ時も変わることはなく、「自己を空にせよということはである。自分もみんなも共に幸福になろうというのが本当である」(同第10巻、現代表記に改めた)と、軍部政府の方針に痛烈な批判を加えたのです。
思想弾圧によって機関紙が廃刊を余儀なくされ、会合に特高刑事の監視がつくようになっても、一歩も退かずに声を上げ続けた結果、牧口会長は43年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で弟子の戸田理事長(当時)らと共に逮捕されました。
表現の自由」「集会の自由」「信教の自由」のすべてが奪われ、投獄までされながらも、牧口会長は最後まで信念を曲げることなく、獄中で73年の生涯を終えたのです。
マンデラ元大統領の忘れ得ぬ言葉に、新しい世界を勝ち取る人間とは腕組みをした傍観者などではなく、「暗澹たるときでも真実を見限ることなく、あきらめることなく何度も試み、愚弄されても、屈辱を受けても、敗北を喫してもくじけない人」であるとあります(『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』長田雅子訳、明石書店)。
獄中で生涯を閉じたという事実だけを見れば、牧口会長の信念は結実をみなかったように映るかもしれません。
しかし、その信念は、獄中闘争を共に貫いた戸田第2代会長に厳然と受け継がれ、途絶えはしなかったのです。
冷戦が深まる中で朝鮮戦争が起きた時、戸田会長の心を占めていたのは、「戦争の勝敗、政策、思想の是非」といった国際政治の次元で語られる関心事ではありませんでした。
「この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親をさがす民衆が多くおりはしないか」と憂慮し、「人民がいくところがない。
楽土にたいする希望がないほど悲しきことはない」(『戸田城聖全集』第3巻)と述べたように、その思いは牧口会長と同じく、何よりも民衆の窮状に向けられていたのです。
56年にハンガリー動乱が起きた時にも、その眼差しは変わりませんでした。
政治的な経緯もさることながら、「国民が悲痛な境遇にあることだけは察せられる」とし、「ただ、一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたい」と、時代変革の波を民衆の行動で起こすことを固く誓ったのです。
こうした信念に基づき、どの国の民衆も踏み台にされることのない世界を築く「地球民族主義」を提唱した戸田会長が、絶対に見過ごすことのできない一凶と捉えていたのが、民衆の生存の権利を根底から脅かす核兵器の問題に他なりませんでした。
であればこそ戸田会長は逝去の7カ月前に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器の禁止と廃絶への道を切り開くことを、当時、青年だった私たちに託したのであります。
 
一人一人の生命と尊厳を守り抜く
このように、二人の先師にとって世界平和の追求は、国家間の緊張解消や戦争の防止にとどまらず、民衆一人一人の生命と尊厳を守り抜くことに主眼がありました。
SGIが核兵器禁止条約の制定を目指す中で、「生命の権利」を守る人権アプローチを重視してきたのは、牧口会長と戸田会長の精神を受け継いだものだったのです。
その意味でも、禁止条約が軍縮に関するものでありながら、国際人権法の精神を宿していることに深い意義を感じてなりません。
条約の最大の特色は、核兵器を禁止する理由として「すべての人類の安全」への危険性を挙げ、被害を受ける“人間”の観点を条約の基礎に据えていることにあります。
また、条約に関わる主体として、国家だけでなく、市民社会の役割の重要性を明確に位置付けていることです。
歴史を振り返れば、国際社会における個人の存在を、同情の対象ではなく権利の主体として位置付けるきっかけとなったのは、「われら人民」の言葉で始まる国連憲章であり、「すべての人」という主語を掲げる条文などで構成された世界人権宣言でした。
核兵器禁止条約でも、自らの被爆体験を通して核兵器の非人道性を訴え続けてきた行動の重みをとどめるべく、「被爆者」の文字が前文に刻まれています。
禁止条約の交渉会議で、市民社会の代表が座っていた席は議場の後方でした。
しかし、ある国の代表が、市民社会は“尊敬の最前列”にあったと語ったように、禁止条約を成立させる原動力となったのは、広島と長崎の被爆者や核被害を受けた世界のヒバクシャをはじめ、心を同じくして行動を続けてきた市民社会の声だったのです。
SGIもその連帯に連なり、ICANとの共同制作による展示を通した核兵器の非人道性に関する意識啓発や、国連への作業文書の提出などを通して、核兵器禁止条約の制定プロセスに深く関わってこられたことは、大きな喜びとするところであります。
和や人権といっても、一足飛びに実現できるものは何一つありません。
“自らが体験した悲惨な出来事を誰の身にも起こさせない”との誓いが平和