【第3回】 ​日蓮大聖人と法華経の関係は?​ (2018.12.18)
経文の通りに実践――
大難を乗り越えて弘通し法華経が真実であることを証明
■身をもって読む
前回まで、法華経の成り立ちや大まかな構成などについて学んできました。
その思想の精髄が法華経です。
そして、薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第23には、「私(=釈尊)が滅度した後、後の五百年のうちに、この法華経を全世界に広宣流布して、断絶させてはならない」(同601ページ、趣意)と説かれています。
「後の五百年」とは、釈尊滅後、仏教が形骸化(けいがいか)して、人々を救う力が弱まっていく時代を指します。
御書には「日蓮は恐くは三師に相承(そうじょう)し」(509ページ)とあります。インドの釈尊から始まり、中国の天台大師、日本の伝教大師という三国の正師による仏教正統の正法の教えが、大聖人御自身へと継承されている御確信を述べられています。
その上で、法華経には、滅後悪世に正法を弘める者には、さまざまな迫害が加えられることが説かれています。
中でも勧持品(かんじぼん)第13には、3種類の強烈な迫害者である「三類の強敵」が出現することが示されています。具体的には、仏法に無知な衆生(俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん))や、正法を持った人を迫害する出家者(道門増上慢(どうもんぞうじょうまん))、そして、聖者を装いながら権力者と結託して弾圧を加えてくる高僧(僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん))です。
大聖人は現実に、この三類を呼び起こし、命に及ぶ数々の大難に遭(あわ)われました。
■他に先駆けて弘通
大聖人は、法華経に説かれる通りに末法の民衆救済の大闘争を起こされたことを、「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(御書1359ページ)、「上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧(すす)めし」(同903ページ)等と仰せです。
では、上行菩薩とは、どのような菩薩なのでしょうか。
付嘱(ふぞく)とは、未来に法を弘通することを託すことです。
ただ一人、先駆けされた大聖人の行動は、法華経の予言に完全に符合(ふごう)します。
■凡夫成仏の道開く
では、私たちはなぜ、大聖人を末法の御本仏と拝するのでしょうか。
そして、大聖人は御自身の仏の生命境涯を、御本尊として曼荼羅(まんだら)に図顕(ずげん)していかれました。
ゆえに、私たちが御本尊を拝して南無妙法蓮華経の題目を唱える時、凡夫である自身の胸中に、仏の境涯を開き顕すことができるのです。
池田先生は、つづっています。
「大聖人は御自身の発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)をもって、事実の上で、凡夫(ぼんぷ)の身に仏界の生命を顕す『即身成仏の道』を万人に開いてくださったのです。
自身の利己的な欲望に突き動かされ、宿業と苦悩に覆(おお)われていた凡夫の身が、久遠元初の生命に立ち返り、宿業の軛(くびき)を断ち切り、万人成仏を願う慈悲と智慧に満ちあふれた仏の身となるのです。
まさに今、仏法の正統は、大聖人に唯一、連なる創価の師弟にこそ受け継がれているのです。
この第五の巻には勧持品第13が含まれており、そこには法華経の行者が受ける迫害として、「悪口罵詈(あっくめり)」(悪口を言われ、罵られる)や「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(権力によって何度も追放される)などの他に、「及加刀杖(ぎゅうかとうじょう)」(刀や杖で打たれる)の難が説かれています。
このことを踏まえて、大聖人は、「刀の難」は小松原の法難と竜の口の法難であり、第五の巻で打たれたことは「杖の難」に当たるとし、「日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ」(御書1557ページ)と、経文を身読されたと仰せになっています。
「地涌の菩薩」とは、内証の境涯が「仏」と同じでありながら、しかも、どこまでも「菩薩」として行動していくからです。いわば「菩薩仏」です。
境涯が「仏」と師弟不二でなければ、正法を正しく弘めることはできない。
しかも現実の濁世で、世間のなかへ、人間群のなかへと同化して入っていかなければ広宣流布はできない。
この両方の条件を満たしているのが「地涌の菩薩」なのです。
だから神力品の最後に「斯の人は世間に行じて」とあるでしょう。「世間に」です。人間のなかへです。
満身創痍(まんしんそうい)です。難との戦いです。
不惜身命(ふしゃくしんみょう)です。それ以外に「生きた法華経」はない。