【第2回】 「どんなことが書かれているの?」 (2018.12.11)

法華経について、皆で学び、深めよう――連載「ロータスラウンジ――法華経への旅」入門編の2回目は、「どんなことが書かれているの?」
 
だれでも、いつでも、どこでも仏界の生命を現すことができる――成仏の法理を説く経典
本門(ほんもん)と迹門(しゃくもん)

法華経に何が書かれているのか、一度は興味(きょうみ)を持ったことがあるのではないでしょうか? 

法華経妙法蓮華経)は、828品(章)から成り立っています。28品もあるので、まずは全体像を捉(とら)えたいと思います。
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法華経の注釈書などを著した中国の天台大師は、28品を大きく二つに立て分け、前半14品(序品第1~安楽行品(あんらくぎょうほん)第14)を「迹門」、後半の14品(従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第15普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第28)を「本門」としました。

それぞれ何が説かれているのでしょうか?

まず迹門では、あらゆる人が差別なく平等に成仏できる可能性が示されます。

その中心となるのが、誰もが等しく仏の生命を具えている根拠となる「諸法実相(しょほうじっそう)」の教えです。

次の本門では、釈尊(しゃくそん)がはるか昔に成仏した(久遠実成くおんじつじょう)ことが明かされ、永遠の仏が示されます。

それによって、本来、だれもが仏であるという生命の真実が明かされます。 

本門と迹門の立て分けとは別に、説法が行われた舞台でも、分けることができます。

一つは、古代インドの霊鷲山(りょうじゅせん)という山です。

そこでの説法を霊鷲山会といいます。もう一つは、空中(虚空こくう)に浮かんで説法が行われたので、虚空会(こくうえ)と呼ばれます。

序品第1から法師品(ほっしほん)第10までが前霊鷲山会、見宝塔品(けんほうとうほん)第11から嘱累品(ぞくるいほん)第22までが虚空会、薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第23から普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第28までが後霊鷲山会になります。

このように、二つの場所で三回の会座(えざ)が行われたことから、二処三会(にしょさんえ)といいます。
 
■万人に仏界の生命

まず、迹門の中心は、方便品第2に説かれる「諸法実相」です。

現実世界においてさまざまな様相ようそうをとって現れている「諸法」と、“真実のすがた”“究極の真理”である「実相」とが別々のものではなく、諸法はそのまま実相の現れであり、実相は決して諸法から離れてあるものではないとするものです。

日蓮大聖人は「諸法実相抄」で、「下(しも)地獄より上(かみ)仏界までの十界の依正(えしょう)の当体(とうたい)・悉(ことごと)く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」(御書1358ページ)と仰せです。
「諸法実相」が説かれたことによって、万人成仏の可能性が根拠(こんきょ)づけられました。
それまでは、仏と衆生の間には越えがたい断絶があると考えられていましたが、本質的に全て妙法蓮華経(実相)として平等であることが示されたのです。
この法理を踏まえ、迹門の各章において、法華経以前の経典では成仏できないとされてきた人たちの成仏が説き示されていきます。
池田先生は、「全宇宙が妙法そのものなのです。
森羅万象(しんらばんしょう)が妙法の歌であり、舞踏(ぶとう)であり、劇であり、詩であり、きらめきであり、生死であり、苦楽であり、流転(るてん)であり、前進であり、本来、歓喜の中の大歓喜なのです」(『法華経 方便品・寿量品講義』普及版〈上〉)と語っています。
 
■永遠に救い続ける
次は、本門の中心的な教えである「久遠実成(くおんじつじょう)」です。

如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第16に「我(われ)は実(じつ)に成仏してより已(この)来(かた)、無量無辺百千万億那由他劫(むりょうむへんひゃくせんまんのくなゆたこう)なり」(法華経478ページ)と、はるか長遠(ちょうおん)の昔に仏になったと説かれます。

これによって、釈尊(しゃくそん)が今世で修行し、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で初めて成仏した(始成正覚しじょうしょうがく)というこれまでの考え方を打ち破り、この現実世界に永遠に存在して人々を救い続ける仏であることが明かされます。
さらに、釈尊の一身の生命において、十界の生命がすべて具(そな)わり、永遠であるということも示されます。
そこから、万人の生命においても、十界のいずれの姿を現じていようと、十界が本来、常に具わっていることがわかります。
つまり、十界の各界が互いに十界を具えている「十界互具(じゅっかいごぐ)」の法理によって、だれでも、いつでも、どこでも、仏の生命を現せることが明かされたのです。
 

池田先生は語っています。 

「妙法を唱える――唱える私どもは九界。唱え奉(たてまつ)る妙法は仏界。妙法を唱えることで、九界と仏界が一体となり、十界互具になっていく。
大いなる『境涯(きょうがい)革命』が、そこに起こる。
仏界が涌現(ゆげん)しなければ、十界互具といっても、理論的な可能性(理具りぐ)に終わってしまう。信行(しんぎょう)があって初めて事実の上(事行じぎょう)で十界互具になるのです。
その意味で、十界互具の『理論』は、きわめてむずかしいが、その『現証』は創価学会の世界には無数にある。
否い、学会の世界にしかないと断言できる」(『法華経智慧』普及版〈中〉「如来寿量品」)
法華経の精神と智慧は、学会によって、世界中にその輝きを放っているのです。
 
法華経智慧』から 
小我から大我への境涯革命

汚(けが)れた九界の世界から仏界を開く、すなわち「九界即仏界」が「前霊鷲山会(ぜんりょうじゅせんえ)→虚空会(こくうえ)」と言えよう。

今度は「仏界即九界」で(虚空会→後霊鷲山会)、九界に勇(いさ)んで救済者として入っていった時、汚れた九界の穢土(えど)が、仏界に照(て)らされた寂光土(じゃっこうど)になっていく。
穢土即寂光土(えどそくじゃっこうど)です。
現実から虚空会に、虚空会から現実へ――この往復作業に「人間革命の軌道」がある。小我から大我への境涯の革命があるのです。
人生は、目の前の現実にとらわれていてはいけない。理想をめざし、現実を超えねばならない。

一方、現実から遊離(ゆうり)してもならない。地に足が着いていなければ、何も変わらない。

虚空という生命の高みから現実を見おろしつつ、その現実へ「変革者」として、かかわっていく生き方を教えるのです。

「変革の宗教」としての法華経の特徴は、二処三会(にしょさんえ)という全体の構成そのものに、見事に表現されていると言えるでしょう。 (普及版〈上〉「序品」)