【第4回】勤行でなぜ法華経を読むの? (2018.12.25)


仏の最高の言葉で題目の功徳を賛嘆  ―― そこに無量の福徳が輝く
 
■方便品と自我偈
創価学会員は日々、朝夕に勤行・唱題を実践しています。勤
行では、法華経の方便品第2如来寿量品第16の自我偈(じがげ)を読誦(読経)します。
なぜ、法華経の経文を読誦するのでしょうか?
今回までの連載で学んできた通り、釈尊が説いた仏法の教えの精髄となる経典が、法華経です。
そして、この法華経の中でも、特に重要な法理が説かれているのが、方便品第2如来寿量品第162品です。
これまでのおさらいになりますが、それぞれの法理を簡単に見ていきましょう。
方便品には、法華経の前半(迹門)の中心的な法理である「諸法実相(しょほうじっそう)」が説かれています。
この法理は、分かりやすく言うと「宇宙のありとあらゆる事象が、『妙法』の現れである」ということを示しています。
この法理が説かれたことにより、一切衆生が平等に成仏できることが、理論的には明らかになりました。
また、寿量品では、法華経の後半(本門)の中心的な法理である「久遠実成(くおんじつじょう)」が説かれています。“
釈尊が今世で初めて成仏した(始成正覚)”というこれまでの考え方を打ち破り、「実は釈尊は、はるか久遠の昔に成仏して以来、この娑婆世界に常住する仏である」ことが明かされました。
このことによって、久遠の過去から無限の未来まで、本来、誰もが仏であるという生命の真実が明らかになりました。
中でも、私たちが読誦する寿量品の「自我得仏来(じがとくぶつらい)」から始まる「自我偈」は、寿量品全体の要約になっています。
日蓮大聖人は、「とりわけ(法華経28品の中でも勝れて立派な品は方便品と寿量品です」(御書1201ページ、通解)と仰せです。
この方便品・自我偈を読誦するということは、南無妙法蓮華経の題目を賛嘆するという意義があります。
すなわち、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を、方便品・自我偈という仏の最高の言葉によって、たたえているのです。
 
■正行と助行
とはいえ、あくまで勤行にあって根幹の修行となるのは、南無妙法蓮華経の題目を唱えることにほかなりません。
ゆえに、唱題を「正行(しょうぎょう)」といいます。
そして、方便品・自我偈を読誦することは、正行である題目の功徳を助け顕すために行うので、「助行(じょぎょう)」といいます。
最高の正行を実践するために、方便品・自我偈による最高の助行を行っている、ともいえます。
分かりやすく例えると、米や麺といった主食(=正行)と、主食の味を助ける塩や酢といった調味料(=助行)との関係とも表現できるでしょう。
唱題を正行とするのは、あくまで私たちは、大聖人の仏法の立場から法華経を読誦しているからです。
大聖人は末法において、不惜身命の実践により法華経を身読し、万人成仏の道を開かれました。
その大聖人が弘められたのが、「法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(御書189ページ)と示されている、法華経の肝心である南無妙法蓮華経です。
したがって、この大聖人の立場から見れば、法華経は、ことごとく南無妙法蓮華経の説明になっているともいえるでしょう。
こうしたことから、日々、御本尊を信じて勤行・唱題を実践していくところに、絶大な功徳があることは間違いありません。
 
■皆に開かれた修行
方便品・自我偈には大切な法理が説示されていますが、私たちが読誦に当たって、経文の意味を全て理解していなければならない、というわけではありません。
御書には、「赤ん坊は水と火を区別できず、毒と薬の違いを知らないが、乳を口に含めば命を延ばすことができる。
それと同じく、経典に通じていなくとも、一字一句でも法華経を聞いた人は仏にならないわけがない」(1046ページ、趣意)と仰せです。
例えば、外国語の意味を理解していなくても、発音が正しければ、その言語を使う相手にはきちんと意味が伝わります。
いわば、勤行・唱題の声は“仏・菩薩の世界の言葉”ともいえます。
勤行・唱題を実践する上で大切なことは、どこまでも御本尊を信じて、妙法を唱えきっていく求道の姿勢です。
そこに必ず、無量の福徳も輝くのです。
そうした意味で、まさに、大聖人が示された読経・唱題は、万人が実践できる仏道修行であるといえるでしょう。
大聖人に連なる仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の教団である創価学会によって、今日、地涌の連帯は全世界に広がりました。
24時間365日、仏の生命を賛嘆する音声が、地球上から途切れることのない時代が到来したのです。
 
なるほど
勤行の際、方便品の読誦の最後で、「所謂諸法(しょいしょほう)。如是相……如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)。」と3回繰り返して読みますが、この部分では、「諸法実相」の理論的根拠となる法理である「十如是(じゅうにょぜ)」が示されています。
ここで、3回読むことには、種々の意義がありますが、一例を述べると 1-御本尊に向かう自分自身が、そのままで仏の智慧をそなえていると見る読み方 2-御本尊に向かう自分自身が、そのままで仏の現実の振る舞いをあらわしていると見る読み方 3-御本尊に向かう自分自身が、そのままで仏の覚りの身の当体と見る読み方、です。
大聖人は「三遍読に功徳まさる」(御書412ページ)と仰せです。
いずれにしても、十如是を3回読むことで、「わが身が尊い仏である」ことを、3つの側面からたたえているのです。
 
毎自作是念 
一切衆生の幸福を願う心
 
如来寿量品第16の最後は、「毎自作是念(まいじさぜねん) 以何令衆生(いがりょうしゅじょ) 得入無上道(うとくにゅうむじょうどう) 速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)」(法華経493ページ)との一節で結ばれています。
これは、「仏は常に、どのようにすれば、衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏の身を成就させることができるかと念じている」という意味です。
日蓮大聖人は「毎自作是念の悲願」(御書466ページ)と仰せです。
池田先生はつづっています。
「『毎自作是念』とは、一言すれば、常に心の奥底にある一念といえます」「奥底の一念に、常に何があるのか、何を思い、願い、祈っているのかが大事になるんです。
そこに、自分の境涯が如実に現れます」(小説『新・人間革命』第26巻「法旗」の章)
どうすれば人々を幸福にできるのだろうか――この釈尊自身の問い掛けで終わるのが寿量品です。
学会員が友の幸福を祈り、献身する姿は、まさに仏の誓いに連なる最も尊い実践なのです。
 
法華経智慧』から 
自身の深き使命を自覚して
今、どんな姿をしていても、一切が「成仏イコール人間革命」という今世のドラマにとって、必要不可欠の一場面、一場面である。
“真実”(仏界)を表している“方便”(九界)なのです。これが秘妙方便です。
大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽(じゅじゅほうらく)にあらずや」(御書1143ページ)と仰せです。
苦楽は九界であり方便。妙法を唱えるのは仏界であり、仏の真実の智慧の世界です。
苦も楽も、信心という大きな高い境涯から悠々と見おろしていく。
そして妙法の喜びを楽しく味わっていく――それが「妙法蓮華経方便品」を身読したことになるのです。
                       
久遠元初の仏――無始無終の常住の仏は、宇宙生命そのものであり、一瞬の停滞もなく、つねに不断に、一切衆生を救おうと活動しておられる。
その仏と自分自身が、じつは一体であり、自分自身が久遠の昔から人々を救うため、広宣流布のために働いてきたのだ、今だけのことではないのだ――そう自覚するのが寿量品の心です。​(普及版〈上〉「方便品(第2章)」、〈中〉「如来寿量品(第16章)」)