価値論 牧口常三郎初代会長

* 利・美・善の意味



 「価値」という語が最も早く用いられていたのは経済的な意味においてであろう。価値があるということは、すなわち欲望充足の対象とするにたるということである。しからばその価値の内容となるものは何か。美醜・利害・善悪の三要素である。



 美の価値とは目・鼻・耳・口・皮膚のいわゆる五官によって獲得する感覚的・一時的価値である。すなわちわれわれの感情を一時的にもせよ楽しませるのが美の価値であり、これに反するを醜という。



 利の価値とは吾人の生命を維持発展するにたる対象との関係状態であり、これに反するを害という。美醜が感覚的一時的なるのに比して利害は全身的永久的の価値である。



 善の価値とは各個人が要素となって統一されている社会の、生成発展に寄与する人間の有意的行為をいう。すなわち人間の働きのうち、公益を善といい、公害を悪という。

 善悪は社会を評価主体として、利害は個人を評価主体とする。ゆえに社会に対して害を加える個人の行為は、個人に利であっても善ではありえない。また一つの社会に善の行為も、これと対立する他の社会では善として通用せずかえって悪と判定される場合もある。この場合に国家と国家との対立のごときは、あたかも個人と個人の対立のように利害で判定されるのである。



 以上を図示すれば、



一  個人的価値



・ 感覚的一時的価値―美醜

・ 全身的永久的価値―利害



二、社会的価値     ―善悪







* 宗教の価値判定



 日常生活の中で価値を問題にする時には、「何でもよい」ということは全然ありえない。必ずAよりもB、BよりもCというように価値のより高いものを求めるのが当然である。学問として知識として知っておく程度のものなら、「何でもよい」のである。

 八百屋の店頭にたくさんの果物がならんでいる。それをただ眺めているなら何でもよいのである。しかし実際に自分が買うとすれば、安くて良い物で、しかも自分が今いちばん食べたいと思う物を買うにきまっている。このように生活は価値を求めている。

 宗教といえども生活と無関係であるわけがない。実際に自分が信仰すればその教えの是非・善悪がただちに生活の上に現れてくるのである。

 ゆえに宗教にも価値の大小・浅深があるのは当然である。イワシの頭でもキツネでも孔子の教えでも釈尊の教えでも、同じだと考えるのは、よほど頭が狂っている証拠ではないか。





* 目的観の確立



 何事をなすにも目的を確立してかからなければ盲動となり、闇中模索となる。現代の世間ではことごとく目的観がない。もし目的があるとしても、それは眼前の小目的であって大目的がないからすぐ行き詰まってしまう。学生は学校を卒業すれば何とかなるだろうと思っている。貧乏人は金さえ持てたらよいと思っている。そのような目的はすべて小目的であり、人生最大の目的に対すれば手段となるのである。

 目的観の確立にはまず幸福の内容をはっきりつかまなければならない。人間は誰でも幸福を求めている。しかして幸福の内容は価値であり、美と利と善であってそれ以外にはない。ゆえに最高最上の美と利と善を獲得するのが人生最大の目的である。名誉・地位・財産等はその一部であり一要素である。

 このように最大の価値を獲得するために自己の生命の実態を知り、生命の力を知る必要がある。このために正しい宗教が無なくて真の幸福は考えられないのである。