名誉会長「霊鷲山」と「彼岸」を語る〔下〕 の1 2006-9-17

◇ 名誉会長 「霊鷲山」と「彼岸」を語る 〔下〕



  朗らかに 集いしこの地が霊鷲山 皆が仏か 皆が菩薩か

  「生命は永遠」「幸福は絶対」

 ≪大聖人が子を亡くした母に≫

 「日月が大地に落ちても潮の干満がなくなっても題目を唱え女人が愛する子に会えぬことはない」



【名誉会長 「霊鷲山」と「彼岸」を語る】



 一、伸びゆく人、強い人は、どこが違うか。

 まず、声が違う。いい声をしている。

 心が充実すれば、声に表れる。

 「声仏事(ぶつじを為す」(御書708ページ)である。

 声一つで、その人のことがよく分かるものだ。

 胸を張り、若々しく、切れ味のいい声で、語らいの輪を広げる。そこから、にぎやかな前進と、勝利へのリズムが生まれる。

 一つの対話、一つの会合を大事にしたい。

 「あの人の話は素晴らしいな」と讃えられる、魅力あふれるリーダーであっていただきたい。

 ともあれ、生き生きと、快活に、さわやかな感動を広げながら進んでいこう! (大拍手)



 一、ブラジルの作家アマードは綴った。

 「幸福とは正義を理解することと、勇気や品格のある生活のなかにある」(神代修訳『希望の騎士革命児プレステス』弘文堂新社)

 まさに、広布へ進む学会員には、勇気がある。品格が光る。正義のために戦う誇りがある。

 フランスの文豪ロマン・ロランは、鋭く述べている。

 「行動しないで考えることは、眠ることです」(山口三夫訳「書簡IX 精神の独立」、『ロマン・ロラン全集41』所収、みすず書房

 リーダーは、深き使命と責任を自覚していただきたい。決して鈍感であってはならない。

 心を合わせて団結し、未来を担う人材を育てながら、勝利への手を打っていきたい。

 私の人生の総仕上げは、いよいよ、これからである。

 仏法で説く「永遠の生命」についても、さらに語っていきたい。

 今まで語ってきたものが、全体の一部分となるような、さらに本格的な生命論を、真実を、全力を挙げて残していこうと思っている。

 また、大勢の方々が日々集う学会本部、日本各地、そして世界各国の会館などの整備も、これからいっそう力を入れていく予定である(大拍手)。



「勤行」は荘厳な霊山の儀式

  ─ 仏界の力が わが身に湧現



◆穢土(えど)にあっても心は霊山(りょうぜん)に住む



 一、さて、先に拝した御書(?、19日付)に、「私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光(じょうじゃっこう)の都となるであろう。

 私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺(てんじく=インド)の霊鷲山を見、本有(ほんぬ)の寂光土へ昼夜に往復されるのである」(御書1343ページ、通解)との一節があった。

 これは、どういうことであろうか。

 大聖人は「一生成仏抄」で、「浄土(じょうど)といい穢土といっても、土に二つの隔(へだ)てがあるわけではない。ただ我らの心の善悪によるのである」と仰せである(同384ページ、通解)。

 衆生の一念が転換すれば、煩悩や苦悩に満ちた穢土に、本来の浄土が現れる。

 身は娑婆(しゃば)世界にあっても、心は霊山浄土に住することができる、との仰せである。

 また大聖人は、「我らは穢土にあっても、心は霊山に住んでいる」、「心こそ大切」(同1316ページ、通解)と述べておられる。

 これは、遠く離れた、佐渡の千日尼への一節である。

 〈「我等は穢土に候へども心は霊山に住(すむ)べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ、いつか(早晩)いつか釈迦仏のをはします霊山会上(えじょう)にまひりあひ候はん」〉



◆力が満ちてくる



 一、「心こそ大切」 ── その「心」とは、具体的には、妙法を受持する「信心」である。

 御書には、次のような御文がある。

 「そもそもこの車(大白牛車〔だいびゃくごしゃ〕)というのは、本門と迹門の二門の輪を妙法蓮華経という牛にかけ、三界の火宅を生死生死とぐるりぐるりと回るところの車である。 ただ、信心というくさびに、志という油をさされて、霊山浄土へまいられるがよい」(同1543ページ、通解)

 事実として、この身が現実世界にある限り、悪縁があらわれることは必然である。信心は、三障四魔との絶え間なき戦いにほかならない。

 いわんや広宣流布は、三類の強敵との間断(かんだん)なき大闘争である。

 その仏道修行を人生の最後まで貫き通し、いささかも揺るがない強盛な信心の一念が、「臨終正念」(りんじゅうしょうねん=死に臨んでも成仏を確信して、心が乱れないこと)である。

 それは人生の最極(さいごく)の勝利の実像であり、仏道修行の完成の尊き姿といってよい。

 この「一生成仏の大境涯」こそが、「霊山浄土」を説かれた意義であると拝することができる。

 戸田先生は語られた。

 「我々の生命の中に、厳然と仏があらわれれば、もう我々には不幸がない。

 すなわち、我々が御本尊を拝んでいるということは、気づかなくとも、我々の生命の中に御本尊があらわれている。

 我々の体が霊鷲山になる。そこで、大聖人即大御本尊の力が、我々の体に満ち満ちてくるのである」

 強盛な信心を燃え上がらせて、広宣流布に戦う人は、来る日も来る年も、その生命の中に霊山浄土が実在するのだ。

 私たちは勤行で法華経を読誦(どくじゅ)している。法華経は、霊鷲山から虚空会へ、再び霊鷲山へ、という構成をとっている。

 「現実」から「悟り」へ、そして再び「現実」へ ── 法華経が示す、この壮大な生命のドラマを、わが生命に再現し、生き生きと生きゆくための源泉が、朝晩の勤行である。

 仏界の力を現して、悠然と、現実世界の苦難と戦い、勝利していくことができる。

 自分自身の生命に、仏界という巨大な力が満ち満ちてくるのだ。

 これが、まさに即身成仏である。

 この尊き境地は、あらゆる三障四魔に打ち勝ち、鍛え抜かれた偉大なる信心の、無限大の栄光の境涯である。

 病苦や老苦、さらに死苦をも乗り越え、勝ち越えた、晴れ晴れとした勝利が無限に続く境地であり、境涯であるのだ。

 その大境涯は、亡くなっても、永劫に続きゆく。

 宇宙全体にわが身が融け込み、広大無辺なる大境涯となって楽しみ、遊楽(ゆうらく)しながらの生命活動となっていくのだ。

 まさに、「生も歓喜、死も歓喜」の境涯である。

 そのための信仰である。そのための信心である。

 この即身成仏の境地について、大聖人は、「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死(しょうじ)ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」(御書1504ページ)と仰せである。



◆霊山浄土は宇宙の全体



 一、大聖人は、御書の随所で、「法華経を修行し抜いた人は、亡くなってから霊山浄土に行くことができる」と示されている。

 たとえば、「如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)」には次のように仰せである。

 「命が続いている限りは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と題目を唱えに唱え抜いて死ぬならば、釈迦・多宝・十方の諸仏は、霊山会でお約束されたことなので、たちまちのうちに飛んできて手を取り肩に担(かつ)いで霊山へと走ってくださるのである。

 その時は、二聖(にしょう=薬王普薩と勇施〔ゆぜ〕菩薩)、二天(にてん=持国天王と毘沙門天王)、十羅刹女法華経を受持した者を助け護り、諸天善神は天蓋(てんがい)をさしかけて旛(はた)を立て、私たちを守護して、功徳に満ちた永遠の仏国土へと必ず送ってくださるのである。なんとうれしいことか、なんとうれしいことか」(同505ページ、通解)

 さらにほかにも、「よくよく信心を強盛にして霊山浄土にまいりなさい」(同1226ページ、通解)、「ただ一心に信心を持(たも)たれて霊山を期しなさい」(同1227ページ、通解) ── 等々、霊山浄土を約束された御聖訓は多い。

 ただし、「亡くなって霊山浄土に行く」といっても、当然のことながら、念仏の西方極楽浄土のような別世界に行くのでは、絶対にない。

 尊き巨大な宝塔が現れ、全宇宙から仏が来集した法華経の会座(えざ)の様相が示しているように、霊山浄土は宇宙そのものなのであり、宇宙の全体なのである。

 したがって、霊山浄土とは、宇宙のどこかに偏って存在しているというものではないのだ。

 そんな偏頗(へんぱ)なものではなくして、宇宙全体の大きさ、深さと同等に、わが一念、わが生命は、妙なるリズムを刻み、歩んでいくのだ。

 ゆえに、先にも述べたように、いずこであれ、信心・修行をしているその場が、一歩も行かずして霊山浄土なのである。

 そして、この正しき信心を貫き、偉大なる正念(しょうねん)を確立した人が亡くなると、その生命は、宇宙全体を余すところなく我が生命とできるような、広大無辺なる境地にいたって、歓喜していけるのである。

 そのことを、戸田先生は、「大宇宙の仏界に溶け込む」と言われた。

 ここに「霊山浄土」の内実があると拝されるのである。