名誉会長「霊鷲山」と「彼岸」を語る〔下〕の3 2006-9-17
◆地涌の菩薩の偉大な陣列
一、日淳(にちじゅん)上人は、こう語っておられた。
「法華経の霊山会において上行を上首として四大士(しだいし=四大菩薩)があとに続き、そのあとに六万恒河沙(ろくまんごうがしゃの大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます」
「その方々を(戸田)会長先生が末法に先達(せんだつ)になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います。
この全国におられる七十五万の方々が、皆ことごとく南無妙法蓮華経の弘法に精進されまするならば、釈尊もかつて予言致しましたように、末法に広宣流布することは、断乎として間違いないところでございまする」
「皆様方が相い応じて心も一つにし、明日への誓いを新たにされましたことは、全く霊山一会儼然未散と申すべきであると、思うのであります。
これを言葉を変えますれば真の霊山浄土、仏の一大集まりであると、私は深く敬意を表する次第であります」〈1958年(昭和33年)5月3日、学会の第18回総会で〉
まことに、創価学会の異体同心の和合僧こそ、「霊山一会儼然未散」の姿そのものであるとの意義である。
地涌の使命に立ち上がる。
広宣流布の大願に生き抜く。
これが「御本尊根本の信心」である。
伽藍(がらん)に仏法があるのではない。いかに権威ぶった儀式を行おうとも、大願の人生を歩まなければ、真に御本尊を尊敬することにはならない。
創価学会こそ、霊山の儀式のままに、末法の広宣流布へ、大願の人生を歩む地涌の菩薩の陣列である。
日蓮大聖人の門下として、広宣流布を目指して異体同心で進む創価学会の姿自体こそ、「霊山一会儼然未散」なのである。
一、インドの霊鷲山には、山中を歩みゆく釈尊に向かってへあの悪逆の提婆達多(だいばだった)が大石を落としたと伝えられる場所もあった。
大恩ある師を裏切り、その命まで奪おうとした「恩知らず」と「嫉妬」の陰謀である。
しかし、仏の命を奪うことは、絶対にできなかった。
広宣流布の和合僧を破壊することも、絶対にできなかった。
反対に、この提婆が生きながらにして、無間地獄に堕ちていったことは、ご存じの通りだ。
霊山浄土は、正義の師弟の“勝利勝利の山々”でもあるのだ。
◆正義を満天下に
一、一切は勝負、仏法は勝負である。正義なればこそ、断じて勝たねばならない。
民衆をいじめ、正義を踏みにじる人間とは、断固、戦うのだ。本当の正義の強さ、偉大さを、満天下に示すのだ。
「華果成就(けかじょうじゅ)御書」には「師弟が相違すれば(師匠と弟子の心が違えば)何ごとも成し遂げることはできない」(御書900ページ、通解)と厳然と仰せである。
悪を鋭く見抜き、どんどん声をあげるのだ。臆病であってはならない。
勇敢なる真実の弟子が、一人立てばいいのだ。
日興上人の「原殿(はらどの)御返事」には、こう記されている。
「大聖人のお弟子(五老僧等)は、ことごとく師敵対してしまった。日興一人、本師(大聖人)の正義を守って、(広宣流布の)本懐を遂げるべき人であると自覚している。ゆえに、大聖人の御本意を忘れることはない」(編年体御書1733ページ、通解)
師弟が心を合わせて唱えゆく、妙法の音声(おんじょう)に勝るものはない。
御聖訓には仰せである。
「白馬がいななくのは、我らが唱える南無妙法蓮華経の声である。この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等が、どうして、色つやを増し、輝きを強くされないはずがあろうか。どうして我らを守護されないはずがあろうかと、強く強く思われるがよい」(御書1065ページ、通解)
朗々たる唱題の声が、諸天を動かし、自分自身を厳然と守りゆくのである。
◆使命の舞台で人間革命の劇(ドラマ)を
一、かつて私は、歴戦の不二の同志である、九州の多宝会の集いに、歌を贈った。
朗らかに 集いし この地が 霊鷲山
皆が 仏か 皆が 菩薩か
永遠に輝きわたる創価の霊山会に集った、正義の皆さまが、絶対に幸福にならないわけがない。健康にならないわけがない。
最後は断じて、すべてに勝ち抜いていけると決まっているのである。
わが使命の舞台で、人間革命のドラマを成し遂げ、皆に勇気と希望を広げて、広宣流布を進めていく。これが、地涌の菩薩の「霊山の誓い」であるからだ。
私とともに!
同志とともに!
学会とともに!
この誓いを果たし抜く人生を、悠然と勝ち飾っていかれることを念願して、私のスピーチとしたい。
亡くなられた全同志、またご家族や友人の方々の三世永遠の幸福を祈ります。
そして皆さまの一家一族が、ますます栄えていくことを、心から祈っております。
同志の皆さまにも、くれぐれも、よろしくお伝えください。
ありがとう! (大拍手) (2006・9・17)
一、日淳(にちじゅん)上人は、こう語っておられた。
「法華経の霊山会において上行を上首として四大士(しだいし=四大菩薩)があとに続き、そのあとに六万恒河沙(ろくまんごうがしゃの大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます」
「その方々を(戸田)会長先生が末法に先達(せんだつ)になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います。
この全国におられる七十五万の方々が、皆ことごとく南無妙法蓮華経の弘法に精進されまするならば、釈尊もかつて予言致しましたように、末法に広宣流布することは、断乎として間違いないところでございまする」
「皆様方が相い応じて心も一つにし、明日への誓いを新たにされましたことは、全く霊山一会儼然未散と申すべきであると、思うのであります。
これを言葉を変えますれば真の霊山浄土、仏の一大集まりであると、私は深く敬意を表する次第であります」〈1958年(昭和33年)5月3日、学会の第18回総会で〉
まことに、創価学会の異体同心の和合僧こそ、「霊山一会儼然未散」の姿そのものであるとの意義である。
地涌の使命に立ち上がる。
広宣流布の大願に生き抜く。
これが「御本尊根本の信心」である。
伽藍(がらん)に仏法があるのではない。いかに権威ぶった儀式を行おうとも、大願の人生を歩まなければ、真に御本尊を尊敬することにはならない。
創価学会こそ、霊山の儀式のままに、末法の広宣流布へ、大願の人生を歩む地涌の菩薩の陣列である。
日蓮大聖人の門下として、広宣流布を目指して異体同心で進む創価学会の姿自体こそ、「霊山一会儼然未散」なのである。
一、インドの霊鷲山には、山中を歩みゆく釈尊に向かってへあの悪逆の提婆達多(だいばだった)が大石を落としたと伝えられる場所もあった。
大恩ある師を裏切り、その命まで奪おうとした「恩知らず」と「嫉妬」の陰謀である。
しかし、仏の命を奪うことは、絶対にできなかった。
広宣流布の和合僧を破壊することも、絶対にできなかった。
反対に、この提婆が生きながらにして、無間地獄に堕ちていったことは、ご存じの通りだ。
霊山浄土は、正義の師弟の“勝利勝利の山々”でもあるのだ。
◆正義を満天下に
一、一切は勝負、仏法は勝負である。正義なればこそ、断じて勝たねばならない。
民衆をいじめ、正義を踏みにじる人間とは、断固、戦うのだ。本当の正義の強さ、偉大さを、満天下に示すのだ。
「華果成就(けかじょうじゅ)御書」には「師弟が相違すれば(師匠と弟子の心が違えば)何ごとも成し遂げることはできない」(御書900ページ、通解)と厳然と仰せである。
悪を鋭く見抜き、どんどん声をあげるのだ。臆病であってはならない。
勇敢なる真実の弟子が、一人立てばいいのだ。
日興上人の「原殿(はらどの)御返事」には、こう記されている。
「大聖人のお弟子(五老僧等)は、ことごとく師敵対してしまった。日興一人、本師(大聖人)の正義を守って、(広宣流布の)本懐を遂げるべき人であると自覚している。ゆえに、大聖人の御本意を忘れることはない」(編年体御書1733ページ、通解)
師弟が心を合わせて唱えゆく、妙法の音声(おんじょう)に勝るものはない。
御聖訓には仰せである。
「白馬がいななくのは、我らが唱える南無妙法蓮華経の声である。この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等が、どうして、色つやを増し、輝きを強くされないはずがあろうか。どうして我らを守護されないはずがあろうかと、強く強く思われるがよい」(御書1065ページ、通解)
朗々たる唱題の声が、諸天を動かし、自分自身を厳然と守りゆくのである。
◆使命の舞台で人間革命の劇(ドラマ)を
一、かつて私は、歴戦の不二の同志である、九州の多宝会の集いに、歌を贈った。
朗らかに 集いし この地が 霊鷲山
皆が 仏か 皆が 菩薩か
永遠に輝きわたる創価の霊山会に集った、正義の皆さまが、絶対に幸福にならないわけがない。健康にならないわけがない。
最後は断じて、すべてに勝ち抜いていけると決まっているのである。
わが使命の舞台で、人間革命のドラマを成し遂げ、皆に勇気と希望を広げて、広宣流布を進めていく。これが、地涌の菩薩の「霊山の誓い」であるからだ。
私とともに!
同志とともに!
学会とともに!
この誓いを果たし抜く人生を、悠然と勝ち飾っていかれることを念願して、私のスピーチとしたい。
亡くなられた全同志、またご家族や友人の方々の三世永遠の幸福を祈ります。
そして皆さまの一家一族が、ますます栄えていくことを、心から祈っております。
同志の皆さまにも、くれぐれも、よろしくお伝えください。
ありがとう! (大拍手) (2006・9・17)