小説「新・人間革命」 3月10日 宝塔6

第三十五回本部総会での山本伸一の講演を受けて、青年部では真剣に検討を重ねた。

 そして、翌一九七三年(昭和四十八年)二月に行われた第二十一回男子部総会で、「生存の権利を守る青年部アピール」が採択されたのである。

 そこでは、戦争の廃絶や公害の絶滅、生命軽視の風潮や暴力などとの戦いが掲げられていた。

 また、女子部も、この年の三月に行われた第二十一回女子部総会で「平和と信仰」をテーマに掲げ、平和運動の展開を発表したのである。

 青年部では、この方針をもとに、各地で、生存の権利を守り、平和を築き上げるための、具体的な取り組みについて、協議が重ねられていった。

 いち早く計画がまとまったのは沖縄であった。

 沖縄では五月十九日、県青年部総会を開催し、席上、「戦争体験記を発刊する」との項目を盛り込んだ「沖縄決議」を採択したのである。

 終戦から二十八年、四十代、五十代で戦争を体験した人たちから、証言を取材するには、最後のチャンスともいうべき時を迎えていた。

 その一方で、「戦争を知らない子どもたち」は、「戦争を知らない大人」へと成長していた。既に、戦後生まれが、日本の人口の半分に達しようとしていたのである。

 日本で唯一、凄惨な地上戦が行われ、地形が変わるほどの爆撃や砲撃を受けた沖縄にあっても、戦争体験は次第に風化しつつあったのだ。

 何事にも「時」がある。「時」を見極め、「時」を逃さずに行動を起こしてこそ、大業の成就もある。

「今」を見失うことは、「未来」を失うことである。

 沖縄の青年たちは立ち上がった。

「戦争体験記」は、一年後の“沖縄終戦の日”である一九七四年(昭和四十九年)の六月二十三日の出版をめざすことになった。

 編纂委員長には沖縄学生部長の盛山光洋が、副委員長には男子部の桜原正之が就いた。

 盛山は一九四四年(同十九年)の六月、桜原は四五年(同二十年)の四月の生まれである。二人とも、戦時中に生まれてはいたが、悲惨な戦争の記憶はなかった。