小説「新・人間革命」 宝塔10 3月16日
桜原正之は、中学を卒業したら、働くつもりでいた。兄や姉も、そうしてきたからだ。
しかし、担任の教師は全日制の高校への進学を強く勧めた。桜原も、できることなら高校へ進みたいとの思いはあった。
兄たちに頼んでみると、「家族で一人ぐらい高校に行く者がいてもいいだろう」ということになった。
桜原は、名門の首里高校を受験し、見事に合格した。
進学できたことに功徳を実感し、勇んで学会活動に励むようになった。
首里高校の同級生は、ほとんどが大学進学を希望していた。
桜原は、“自分も大学に行き、広宣流布の力ある人材に育ちたい”と考えるようになった。
希望は、使命の自覚となり、力となる。
彼は、猛勉強と唱題に励み、琉球大学に合格したのだ。正之の大学合格を、兄も姉も喜び、進学を支援してくれた。
同じ琉球大学に学び、共に広宣流布の使命に生きようとする盛山光洋と桜原は、すぐに親友になった。
二人は互いに励まし合いながら、勉学に、学生部の活動にと、懸命に取り組んでいった。
彼らは、アルバイトに追われる苦学生という境遇も似ていた。金がなくなると、まとめ買いしておいた片栗粉に、砂糖とコーヒーを混ぜて食べ、空腹を紛らした。
だが、彼らは、貧しくとも、心は沖縄広布の大願に燃えていた。
十七世紀フランスの著名な文人ラ・ロシュフーコーは、次のような真理の言葉を残している。
「ほんとうの友人は、あらゆる宝のうちで最大のものであるとともに、人がもっとも得ようと思いつかない宝である」
学内で盛山と桜原は、仏法哲理を研鑽するサークルの活動にも力を注いだ。また、沖縄の未来を開くために、仏法を基調にした平和運動の在り方も、真剣に模索していった。
大学に入学した一九六四年(昭和三十九年)の十二月二日のことである。
沖縄本部で学生部員会が行われていた。そこに突然、沖縄を訪れていた会長の山本伸一が、姿を見せたのだ。
誰もが息をのんだ。盛山も桜原も、伸一と会うのは初めてであった。
しかし、担任の教師は全日制の高校への進学を強く勧めた。桜原も、できることなら高校へ進みたいとの思いはあった。
兄たちに頼んでみると、「家族で一人ぐらい高校に行く者がいてもいいだろう」ということになった。
桜原は、名門の首里高校を受験し、見事に合格した。
進学できたことに功徳を実感し、勇んで学会活動に励むようになった。
首里高校の同級生は、ほとんどが大学進学を希望していた。
桜原は、“自分も大学に行き、広宣流布の力ある人材に育ちたい”と考えるようになった。
希望は、使命の自覚となり、力となる。
彼は、猛勉強と唱題に励み、琉球大学に合格したのだ。正之の大学合格を、兄も姉も喜び、進学を支援してくれた。
同じ琉球大学に学び、共に広宣流布の使命に生きようとする盛山光洋と桜原は、すぐに親友になった。
二人は互いに励まし合いながら、勉学に、学生部の活動にと、懸命に取り組んでいった。
彼らは、アルバイトに追われる苦学生という境遇も似ていた。金がなくなると、まとめ買いしておいた片栗粉に、砂糖とコーヒーを混ぜて食べ、空腹を紛らした。
だが、彼らは、貧しくとも、心は沖縄広布の大願に燃えていた。
十七世紀フランスの著名な文人ラ・ロシュフーコーは、次のような真理の言葉を残している。
「ほんとうの友人は、あらゆる宝のうちで最大のものであるとともに、人がもっとも得ようと思いつかない宝である」
学内で盛山と桜原は、仏法哲理を研鑽するサークルの活動にも力を注いだ。また、沖縄の未来を開くために、仏法を基調にした平和運動の在り方も、真剣に模索していった。
大学に入学した一九六四年(昭和三十九年)の十二月二日のことである。
沖縄本部で学生部員会が行われていた。そこに突然、沖縄を訪れていた会長の山本伸一が、姿を見せたのだ。
誰もが息をのんだ。盛山も桜原も、伸一と会うのは初めてであった。