小説「新・人間革命」 信義の絆28 11月30日
一九七五年(昭和五十年)の四月、創価大学は日本で初となる新中国からの正式な国費留学生六人を、キャンパスに迎えたのである。
その留学生の身元保証人となったのが山本伸一であった。
また、十一月二日、伸一の提案によって、留学生らの手で、周恩来総理の健康を祈り、万代にわたる日中友好への願いを込め、構内に「周桜」が植樹された。
だが、翌七六年(同五十一年)には、その周恩来総理が、さらに毛沢東主席が、相次いで亡くなったのである。
やがて、華国鋒党主席が誕生するが、中ソの関係は冷え切ったままであった。
さらに中国は、中ソ友好同盟相互援助条約を、期限切れの一年前にあたる一九七九年(同五十四年)に、満期後の廃棄をソ連に通告したのだ。
この条約は、ソ連との同盟関係や相互援助などを約したものであった。
しかも、この年の暮れにソ連がアフガニスタンに侵攻したことから、中国は中ソ関係の改善を図るために行われていた会談の無期延期を通告したのだ。
八〇年(同五十五年)四月、伸一が五度目に訪中した時には、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難する声が渦巻いていた。
会談した人たちから、こんな要請もあった。
「山本先生がソ連に行かれると、せっかく先生が架けられた日中の友誼の橋は固まりません。ソ連訪問は、できる限り控えていただきたい」
伸一は答えた。
「お気持ちはわかります。しかし、時代はどんどん変化しています。二十一世紀を前に、全人類を平和の方向へと向けていかなくてはならない。
もはや大国が争い、憎み合っている時ではありません。『お互いのよいところを引き出しながら、調和していこう』『人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう』という人間主義こそが必要なのではないでしょうか」
伸一は真心を込めて訴えたが、なかなか納得してもらえなかった。最後は、中国とソ連と、どちらが大切なのかという話になってしまうのだ。
信念の歩みの前には、必ず困難の障壁が立ちはだかるものだ。それを乗り越えてこそ、新しき道が開けるのだ。
その留学生の身元保証人となったのが山本伸一であった。
また、十一月二日、伸一の提案によって、留学生らの手で、周恩来総理の健康を祈り、万代にわたる日中友好への願いを込め、構内に「周桜」が植樹された。
だが、翌七六年(同五十一年)には、その周恩来総理が、さらに毛沢東主席が、相次いで亡くなったのである。
やがて、華国鋒党主席が誕生するが、中ソの関係は冷え切ったままであった。
さらに中国は、中ソ友好同盟相互援助条約を、期限切れの一年前にあたる一九七九年(同五十四年)に、満期後の廃棄をソ連に通告したのだ。
この条約は、ソ連との同盟関係や相互援助などを約したものであった。
しかも、この年の暮れにソ連がアフガニスタンに侵攻したことから、中国は中ソ関係の改善を図るために行われていた会談の無期延期を通告したのだ。
八〇年(同五十五年)四月、伸一が五度目に訪中した時には、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難する声が渦巻いていた。
会談した人たちから、こんな要請もあった。
「山本先生がソ連に行かれると、せっかく先生が架けられた日中の友誼の橋は固まりません。ソ連訪問は、できる限り控えていただきたい」
伸一は答えた。
「お気持ちはわかります。しかし、時代はどんどん変化しています。二十一世紀を前に、全人類を平和の方向へと向けていかなくてはならない。
もはや大国が争い、憎み合っている時ではありません。『お互いのよいところを引き出しながら、調和していこう』『人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう』という人間主義こそが必要なのではないでしょうか」
伸一は真心を込めて訴えたが、なかなか納得してもらえなかった。最後は、中国とソ連と、どちらが大切なのかという話になってしまうのだ。
信念の歩みの前には、必ず困難の障壁が立ちはだかるものだ。それを乗り越えてこそ、新しき道が開けるのだ。