2008年1月26日 聖教新聞 第33回「SGIの日」記念提言 『平和の天地人間の凱歌』 上-2

2008年1月26日 聖教新聞
第33回「SGIの日」記念提言 『平和の天地人間の凱歌』 上-2

 人間主義の立つ普遍的な足場 
 ジイドは大仰な言い方を嫌うかもしれないが、明快にして要を得た、まさに人間主義宣言ともいうべき歴史的留言であります。ジイドにとってヒューマニティーユマニテ)とは、今日、使い古されてすっかり手垢のついてしまった、それ故さしたる共鳴を響かせなくなってしまったヒューマニズムがもたらす語感とは違い、極度に磨きすまされた、そこ以外に正義の根拠を求めようのない普遍的な足場であった。そして、「私自身よりも......」と述べられているように、その擁護のためには命を賭してもよい「文化」──自他の尊重、差異や多様性の尊重、自由や公正、寛容などの精神的遺産に裏打ちされた普遍的価値であった。その信念こそが、時流に抗した不屈の精神闘争を支えていたにちがいないのであります。
 そのヒューマニティーの普遍的な広袤(こうぼう)(ひろがり)は、仏典で説かれる「法性(ほっしょう)の淵底(えんでい)・玄宗(げんしゅう)の極地(ごくち)」(一切諸法が拠りどころとする根本の真理)を連想させます。仏法を基調とする人間主義とは、その普遍的な足場──仏性という誰もが具えている金剛にして不壊、清浄にして無垢なる心性を「心蓮台(しんれんだい)」(心の蓮台=仏の座する蓮華の台座)と名付けるのは、普遍的な足場、根拠をよくイメージさせます──を踏み外すことなく、宗派性はもとよりのこと、あらゆる主義・主張の相違、民族や人種の相違、社会を構成する位階秩序の順逆などを相対化し、正しく再構築していくことを本領とする。「原理」ではなく「人間」が主役であるとは、そのことをいうのであります。
 故に仏典では、「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善意の法をば造り出せるなり」(御書563~564ページ)と説かれている。
 「八万四千の法蔵」とは、直接的には釈尊一代の説法を指しますが、敷延すれば“差異”の世界のすべてともいえます。そうした"差異"を超えて、あらゆる人間が共有する無差別・平等な境地を探り当て、一切がそこからスタートし、そこへ帰着してくる。アルファ(出発点)であり、オメガ(究極)なのであります。あらゆる原埋主義は、その点が逆倒し、倒錯しているといってよい。

 自ら作ったものの奴隷となる弱小さ 
 半世紀以上も前、フランスのユマニスム研究と紹介に生涯を捧げた渡辺一夫(当時、東大教授)が、第2次世界大戦中に吹き荒れた狂信(原理至上主義)の嵐を振り返りながら「宗教のヒューマナイゼーション」を提起したことがあります。
 「第二の宗教改革が、新しいルッター、新しいカルヴァンによってなされねばならず、その道は、奇妙な表現であるが、宗教のヒューマナイゼーションしかない。そして、宗教のヒューマナイゼーションとは、『鴉片(あへん)』的なものを一切自ら棄てて、神すら人間のためにあるものであることを認知し、自らの作ったものの機械となり奴隷となりやすい人間の弱小さに対する反省を、自らも行い他人にも教え、ルネサンス期以来人間の獲得したものに対する責任を闡明(せんめい)する役を買わねばならない」(大江健三郎清水徹編『渡辺一夫評論選 狂気について 他二十二篇』岩波書店)と。
 以来60年、それ以降のそして昨今の宗教事情を顧みれば、このラジカルな問題提起は、今もって未完の問いかけであり続けていると言わざるを得ません。何といっても、原理主義という言葉が最も頻繁に使われるのは、宗教のあり方をめぐってであるからです。
 とはいえ、いつまでも未完のまま放置しておいてよい訳では決してない。それでは、宗教は平和構築の原動力どころか、戦争や争いの加担者になってしまいます。
 それ故、私は「21世紀文明と大乗仏教」と題するハーバード大学での2回目の講演(1993年9月)で、宗教を持つことが、人間を「強くするのか弱くするのか」「善くするのか悪くするのか」「賢くするのか愚かにするのか」という視点を、宗派性を超えて導入すべきであると、自戒の念を含めて、強く訴えたのであります。宗教が人々の平和と幸福に資するためには、何よりもその宗教が、人間を「強く」し「善く」し「賢く」するよう促し、後押しするものでなければならない。それは「宗教のヒューマナイゼーション」とはぼ同義語であり、その内実であります。

 ヴイーゼル氏の良心からの叫び 
 ノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴイーゼル氏は、教条主義原理主義につきまとう狂信と憎しみを凝視し、自ら創設した人道財団が中心となって、「憎しみの分析」をテーマにした国際会議をこれまで数回開催してこられました。
 氏はその動機を「今日、多くの知識人たちが狂信に惹かれているのをどう説明したらよいのか? また、こうした魅力に取りつかれないよう免疫力を宗教につけるにはどうしたらいいのだろう」とし、「〈歴史〉始まって以来、人間だけが狂信と憎悪に苦しみ、それをせき止めることができるのも人間だけだ。人間だけがその能力を持ち、そしてその罪を犯しているのである」(村上光彦・平野新介訳『しかし海は満ちることなく 下』朝日新聞社)と強調しています。人間の良心のやむにやまれぬ叫びであり、宗教のヒューマナイゼーションヘの、切なる期待といえましょう。
 少年期、アウシュビッツで父の死を目の当たりにし、母や妹を失い、ナチズムという最悪の原理主義の地獄をくぐり抜けてきた人の言葉だけに、人類史の直面する容易ならぬ課題を実感させる、重みと響きがあります。そして、それは、我々が避けて通ることの許されぬ難題(アポリア)なのであります。
 そうした努力を怠り、宗派性のみに固執していれば、宗教が人間の精神性を「弱く」し「悪く」し「愚か」にしてしまい、「鴉片的なもの」を増長させ、かえって戦争や争乱を助長し拍車をかけてしまう。ヴイーゼル氏の指摘するように、いわゆる"原理主義への傾斜"であり、あえて実例をあげる必要もないほど人類の歴史に刻まれてきた宗教の暗部、負の側面であります。

狂信と憎悪の重力にいかに立ち向かうか

 私が「未完の問いかけ」としたように、「宗教のヒューマナイゼーション」ということは、21世紀の今日、今なお越えねばならぬハードルとして、我々の眼前に立ちはだかり続けている。宗教史の明と暗のバランス・シートをどう捉えるかは難しい問題ですが、少なくとも、21世紀文明と宗教のあり方を考える際、宗教は人間性の向上、平和と幸福のためにあるという視点を忘れてはならないと、強く訴えるものであります。

 歴史家ミシュレが提起した宗教観 
 その点、かねてより私が注視していたのは、19世紀の大歴史家ジュール・ミシュレの宗教観であります。
 ミシュレの生きた時代はオリエント・ルネサンスと呼ばれたように、古代ギリシャ・ローマ文明の発見・再興であったルネサンスを受け、さらに、インドやペルシャなどを含むオリエント(東洋)への関心が増大し、時間的にも空間的にも、ヨーロッパ中心のキリスト教的世界観からの脱皮を迫られていた時代であった。当時の時代精神はどこか今日のグローバリゼーションと似た雰囲気があったのかもしれない。著書『人現の聖書』(大野一道訳、藤原書店)で、ミシュレは言います。
 「われわれの時代は何としあわせな時代か! 電線を通して地球上の魂を、今現在の中に一つに結びつけ調和させる時代である。歴史の流れを通し、いくつもの時代を照応させ、友愛にみちた過去を共有していたという感覚を与え、地上の魂が、同じ一つの心によって生きてきたことを知る喜びを与える!」と。
 「電線を通して……」などという表現は、今日のネット社会を連想させますが、何といっても、19世紀前半といえば、近代の科学技術文明の夜明けというか"揺籃期"であります。ミシュレの個人的資質も加わって、文明のフロンティア、世界像の拡がりへの斯待は、時間的にも空間的にも無限大で、ほとんど手放しに近い。その点、30年以上も前にローマクラブの報告が「成長の限界」を警告したように、近代文明の"黄昏(たそがれ)期"を余儀なくされている我々の時代とは、際立って対照的です。急速に進むネット社会に漂う、ある種の手詰まり感は、情報科学のもたらすコミュニケーションの拡大がそのまま「地球上の魂を……一つに結びつけ調和させる」ことにつながるとする楽観論など、現状は皆無に近いことを物語っているといえましょう。
 その意味では、ミシュレの時代は、ヨーロッパ人が、自らの文明を相対化しつつも、というよりも相対化の故に、人間の力や可能性の普遍的な拡がりに自信を持つことができた幸福な時代であったのかもしれません。そうした時代精神は、ミシュレの宗教観にも如実に映し出されております。それは、まさしく「宗教のヒューマナイゼーション」そのものでした。
 『人類の聖書』とは、「新・旧約聖書」に限らず、ミシュレが「真の著者、それは人類である」と述べているように、インドの「ヴェーダ」や「ラーマーヤナ」、古代ギリシャの英雄叙事詩や古典劇、ペルシャの「シャー・ナーメ」、あるいはエジプト、シリアなど、漢字文化圏を除くほとんどの文明圏の「聖典=聖書」(神々)を広く渉猟(※しょうりょう)したもので、それらを過不足なく比較・検証した上で、彼は、こう大胆かつ明快な結論を導き出しております。「精神活動が宗教を包含するのであって、それが宗教の中に包含されるのではない」と。すなわち「人間」を超越し、「人間」に先行する一切の宗教的要因を拒否するのであります。「ヒューマナイゼーション」たる所以です。
 そして言います。「アジアとヨーロッパとの完璧な一致、はるかな昔の時代とわれわれの時代との一致が分かったのである。(中略)──したがって、唯一の人類が、唯一の心があるのであって、二つに分かれてあるのではないということが分かったのだ。空間と時間を貫く大いなる調和が、永遠に復元されたのである」と。
※渉猟=1 広くあちこち歩きまわって、さがし求めること。「山野を-する」2 調査・研究などのために、たくさんの書物や文書を読みあさること。「内外の文献を-する」(Yahoo辞書より)

第33回「SGIの日」記念提言 『平和の天地人間の凱歌』 上-3に続く


ブログ はればれさんからのコピーです。