2008年1月26日 聖教新聞  第33回「SGIの日」記念提言 『平和の天地人間の凱歌』上

2008年1月26日 聖教新聞
第33回「SGIの日」記念提言 『平和の天地人間の凱歌』上

自己規律に基づく骨太な人間讃歌 
 人間不信や閉塞感の遍満する現代から見れば、まさに隔世の感を深くします。静かにそれは、近代文明の"夜明け""揺藍"の時代の、ユートピア的というか、あまりにもおおどかで楽観的な人間観、人間讃歌といえるかもしれない。そして、人間性の開花の系譜を、古代インドやギリシャの人間観から、中世の"暗黒時代"を経て、ルネサンスフランス革命(自由・平等・友愛)へとたどるミシュレの期待と展望を、その後の歴史が大きく裏切ってきたことは周知の事実であります。20世紀の2度にわたる世界大戦、"アウシュビッツ"や"ヒロシマ"の惨劇を経験し、知識や科学技術が油断のできない"諸刃の剣"であることが骨身にしみている我々は、到底そのような手放しの楽観論に与(くみ)することは不可能です。また、前世紀末のソ連の崩壊が、歴史の進展をフランス革命からロシア革命へとたどる進歩主義歴史観に終止符を打ったことも、我々の記憶に新しい。
 とはいえ、我々は「沐浴(ゆあみ)の水と一緒に子どもまで捨ててしまう」(ドイツのことわざ)愚を犯してはならないでしょう。ミシュレが「お願いだから(人間)であるようにしよう。人類の聞いたこともない新しい偉大さによって、偉大になってゆこう」と訴えているように、人間が原点であり、人間こそが、宗教を含めた歴史創出の主役でなければならないという基本スタンスだけは、忘失されてはならない。我々の標榜する人間主義の戦いの成否も、そのスタンスを共有し、どう深化させ、継承していくかにかかっているからであります。
 特筆すべきは、ミシュレの人間讃歌が、今日のヒューマニズムという言葉にまつわる曖昧さ、骨格の定まらぬ情緒的な脆弱さとは縁遠いダイナミズムを有していたこと、換言すれば、人間解放とは似て非なる、エゴイズムの野放図な拡大にほとんど無防備であったその後のヒューマニズムの歩みとは対照的に、人間精神の規範性、自己規律という点でも、一本の太いバックボーンを有していた点であります。『人類の聖書』の末尾には、「インドから[一七]八九年まで光の奔流が流れ下ってくる。『法』と『理性』の大河である」という人類史の正統を継いでいるという自信、そして「諸々の時代にあって同一であるもの、自然と歴史の堅固な基盤にのった永遠の『正義』が輝き出る」とされ、「法」や「理性」「正義」を根拠ともバックボーンともしながら、自らを律し、創り直し、もって歴史創出の主役たらんという自覚、自負が、骨太に謳い上げられています。おおどかな人間讃歌が"遠心力"であるとすれば、これは"求心力"ともいえる。両者が均衡を保ってこそ、人間の魂は正常にはたらくことができます。
 ミシュレのいう「法」とは若干ニュアンスを異にしますが、それは仏教で説く「自帰依、法帰依」の構図と重なってきます。いわく、「みずからを洲(す)とし、みずからを依りどころとして、他人を依りどころとすることなく、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとすることなかれ」(増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)と。音も今も、人間が人間(主役)たらんとするには、何らかの依るべき「法」が不可欠なのであります。

 部分的な「正義」の誘惑を超えて 
 とはいえ、歴史はミシュレの思う方向には進まなかった。先に触れたように、渡辺一夫は「自らの作ったものの機械となり奴隷となりやすい人間の弱小さ」を言います。その「弱小さ」故に、人間は「人間、それ自らに背くもの」(G・マルセル)の言葉のごとく、歴史創出の主役たらんとしてその座から転がり落ち、20世紀は、イデオロギーの絶対化、狂信に発する戦争と暴力の嵐が吹き荒れました。ミシュレのいう普遍的な「正義」ではなく、あらゆる次元の個別的、部分的な「正義」が、人間の「弱小さ」につけ込むように己の正しさを言い募り、角突き合わせ、争っている──"原理主義への傾斜"を憂慮する所以であります。部分的「正義」の先にどんな悲惨が待ちかまえているかを知らずに、人間はなかなかその誘惑に勝てない。
 そうした"原理主義への傾斜"を止めるためには、それを座視するのではなく、人間主義は、悪との闘いを避け、放棄してはならないと訴えたい。ヒューマニズムという言葉には、平和や寛容、穏便といったプラスイメージと同時に、微温的、生ぬるさなどのマイナスイメージもっきまとう。そこをもう一歩突き抜けなければ、原理主義特有の過激さと対峙することは不可能でしょう。ナチズムと戦い続けたトーマス・マンは、それを「戦闘的なヒューマニズム」と名付け、こう述べております。
 「今日必要なのは戦闘的なヒューマニズム、みずからの雄々しさを発見し、自由、寛容および懐疑の原理は恥も懐疑も持たない狂信によって悪用され、踏みにじられてはならないのだという確乎たる見解に貫かれたヒューマニズムであろう」(佐藤晃一訳「ヨーロッパに告ぐ」、『トーマス・マン全集11』新潮社)と。
 ちなみに渡辺一夫は、マンのその小冊子が「激動期における私の『枕頭(ちんとう)の書』となり、次いで『雑嚢(ざつのう)の書』となり」(前掲)と語っています。
 この「戦闘的なヒューマニズム」とは、事実、ジイドが「正当なヒューマニズム」として熱烈にエールを送っているように、ジイドが「私自身よりも、ソヴェトよりもずつと重大なもの」として普遍的価値、正義の根拠としていた「ヒユマニティ」(ユマニテ)と同根から発しているはずであります。
 そして私は、そこに仏法を基調にした人間主義による精神闘争のあり方が、二重写しにされてならないのであります。私どもの推し進める仏教運動が、現在、世界的な拡がりを見せ、各界から幅広い支持をいただいているのも、それを基調にした人間主義が、宗派性、宗教原理を超えた普遍的な拡がりを存し、すなわち「宗教のヒューマナイゼーション」という文明史的課題の一翼を担っているからではないでしょうか。

分断の世界を一つに結ぶ 対話の万波を民衆の手で!

 言論を嫌うのは人間嫌いと同根 
 ところで、ヒューマニズムを言う限り、最大の武器、コミュニケーションの手段が対話──人類史とともに古くて新しい課題であり続ける対話に帰着することはいうまでもない。古来、“対話的存在”であることは、人間の本質に根ざし続けており、対話が途絶するということは、人間が人間であることをやめるに等しい。いうなれば、対話なき人間は人間失格であり、対話なき社会は墓場といっても過言ではありません。
 古くはソクラテスが「およそ人の心がおちいる状態で、この、言論を忌み嫌うということほど、不幸なものはありえない」(藤沢令夫訳「パイドン」、『世界古典文学全集14 プラトン1』筑摩書房)として、言論嫌い(ミソロゴス)を人間嫌い(ミサントローボス)と同根としました。
 また近くは、例えば、昨年亡くなったドイツの碩学カール・フォン・ヴァイツゼッカー氏(私が会談したドイツ元大統領の長兄)は、「人間とは共に生きるための、人生の対話者という存在である」(小杉尅次・新垣誠正訳『人間とは何か』ミネルヴァ書房)と喝破しております。
 この種の証言は枚挙にいとまがなく、それは、言論や対話が、いかに人間を人間たらしむる本質的要件であるかを物語っております。人間が善き人間であろうと、つまり叡知人(ホモ・サピエンス)たらんとすれば、同時に言語人(ホモ・ロクエンス)として、対話の名手でなければならない。
 特に、対話と対極に位置する狂信や不寛容の歴史を引きずる宗教の分野にあっては、ドグマを排し、自己抑制と理性に裏打ちされた対話こそ、まさに生命線であり、対話に背を向けることは、宗教の自殺行為といってよい。したがって、仏法を基調とする人間主義を推し進めるにあたって、いかに狂信や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだかろうと、この、対話こそ人間主義の"黄金律"であるという旗だけは、断じて降ろしてはならないと訴えておきたいと思います。
 途中で途絶しては対話とはいえず、真の対話は、間断なき持続的対話として貫徹されねばならない──こうしたホモ・ロクエンスの真価を発揮するには、相応の間断なき精神闘争を要するはずです。
 それには、人間の「強さ」「善良さ」「賢明さ」などの美質が、総動員されなければならない。そして、真の宗教は、それら美質を顕現させゆく駆動力でなくてはならない。すなわち「人間革命の宗教」でなければならないというのが、私の変わらぬ信念であります。故に、ハーバード大学での講演でも、その点を踏まえ、21世紀文明に果たすべき大乗仏教の精髄について、論及したのであります。

 50冊近くに及ぶ識者との対談集 
 対話こそが宗教の生命線であり黄金律である──この信念に立って、私は、これまで7000人余の識者・要人と会談してきましたし、トインビー博士をはじめ50冊に及ぼうとする対談集を世に問うてきました。
そこにはキリスト教文明圏や儒教文明圏の人も数多い。従来、比較的日本と交流の少なかったイスラムやヒンズー文明圏の人も旧共産圏の人もいます。また、人文系に限らず、物理学や天文学など理数系の識者もいる。仏典に「無量義は一法より生ず」とあるように、国境を超え、宗派やイデオロギーを超え、人種や民族、学問間の障壁を超えながら、異なる分野を架橋しゆく対話を、仏法を基調にした人間主義にのっとり、着実に推し進めてきました。それは、普遍的ヒユーマニズムを、時代精神にまで高め、21世紀文明に寄与したいとの念願からであります。
 またSGIでも、7年前の同時多発テロ事件の直後からヨーロッパ科学芸術アカデミーが開催してきた、キリスト教、仏教、ユダヤ教イスラム教の代表による「四大宗教間対話」に継続的に参加し、平和に貢献する道をともに模索してきました。
 そしてさらに、私の創立した東洋哲学研究所やボストン21世紀センター、戸田記念国際平和研究所においても、「文明間対話」や「宗教間対話」を積極的に推進してきたのであります。(下に続く)

第33回「SGIの日」記念提言 『平和の天地人間の凱歌』 上〔完〕


ブログ はればれさんからのコピーです。