2008年2月8日 聖教新聞 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1-1

2008年2月8日 聖教新聞
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1-1



使命を自覚すれば希望と勇気が生まれる

 一、素晴らしき青春の詩を紹介したい。
 「私は幸福だ
 わが優しき友よ
 かくも純粋で
 調和に満ちた君の声が
 私の夢を
 揺りかごのように
 揺らしながら歌う時
 私は幸福だ
 私は幸せだ」
 「人生のために
 君がより良き人間に
 なることを私に約す時
 私は幸福だ」
 これは、大科学者であり、豊かな詩心をあわせ持っていた女性マリー・キュリー(1867~1934年)が記し残した詩の一節です。
 私と妻の「夢」は、創価教育の創始者牧口常三郎先生、そして戸田城聖先生の「夢」を実現することであります。
 その最大の「夢」の一つが、女性教育の殿堂たる創価女子短期大学の創立でありました。
 この短大の麗しきキャンパスで、「正しき人生」「革福の人生」「勝利の人生」へと、「誉れの青春」を乱舞しゆく皆さん方を見守ることが、私と妻にとって、何よりも何よりも幸福なのであります。

 春夏秋冬、励ましを贈りゆく像
 「わが創価女子短大の「文学の庭」には、キュリー夫人の像が立っています。
 背筋を凛と伸ばし、真摯な探究の眼差しで、手にした実験のフラスコを一心不乱に見つめています。
 うららかな桜花爛浸の日も、激しい雷雨の日も、寒風の吹きすさぶ木枯らしの日も、そして白雪の舞いゆく日も、学び勝ちゆく姿で、わが短大生の向学の春夏秋冬を励まし続けてくれています。
 この高さ2・5メートル、台座1・5メートルの像は、アメリカの気鋭の彫刻家ジアノッティ氏が、1915年の写真をもとに渾身の力を込めて制作されたものです。
 第1次世界大戦のさなか、放射線治療班を組織して、負傷兵の看護に奔走した時期のマリー・キュリーの姿です。
 この像の除幕式が行われたのは、1994年の春、4月4日。
 寄贈してくださったブラスナ一博士ご夫妻と一緒に、私と妻も出席いたしました。
 式典に参加した短大生の皆さん方の、あの晴れやかな喜びの笑顔が、私は本当にうれしかった。
 マリー・キュリーは、1867年の11月7日生まれ。
 「創価教育の父」である牧口先生が生誕したのは、1871年の6月6日ですから、ほぼ同世代になります。
 私の恩師・戸田先生も、牧口先生と同じ時代を生きたキュリー夫人の足跡に格別の関心を寄せられ、模範の女性として最大に賞讃されていました。私が短大にキュリー像を設置した淵源も、ここにあります。
 私の行動の一切の起点は、師への報恩であり、師の構想の実現であります。
 恩師のもとで、若き日に編集長を務めた雑誌「少年日本]に「キュリー夫人の苦心」と題する伝記を掲載したことも、懐かしい。

 令孫との出会い 
 一、この像の除幕から4年後の1998年の秋、短大生の代表が、来日していたマリー・キュリーの令孫で、核物理学者でもあるエレーヌ・ランジュバン=ジョリオ女史とお会いする機会がありました。
 短大のキュリー像のことを申し上げると、それはそれは喜んでくださったといいます。
 今回は、この像の前でゆったりと懇談するような思いで、講座を進めさせていただきたい。

 ノーベル賞を受けた初の女性 
 一、改めて申し上げるまでもなく、マリー・キュリーは、人類史に輝きわたる屈指の大科学者です。
 1903年には、ノーベル物理学賞を受賞しました。〈夫のピエール・キュリー、フランスの物理学者であるアンリ・ベックレルと共同受賞〉
 これは、女性として最初の受賞となりました。
 さらに初の受賞から8年後の1911年には、ノーベル化学賞を単独で受けています。
 二つのノーベル賞を勝ち取ったのも、彼女が初めてです。
 しかも、その人格は、そうした"世評の風"によって、いささかたりとも左右されなかった。かのアインシュタイン博士も、「名のある人々のなかで、マリー・キュリーはただひとり、その名声によってそこなわれなかった人物である」(ビバリー・バーチ著、乾侑美子訳『キュリー夫人偕成社)と感嘆しておりました。
 だからこそ、時を超え、国を超えて、民衆から、彼女は深く広く敬愛されてきたのです。

 最も好きな歴史上の人物 
 一、これは、フランスの友人が教えてくれたのですが、5年前(2003年)にフランスの調査会社が、ヨーロッパの6カ国(ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、フランス、ポーランド)の街角で、「最も好きなヨーロッパの歴史上の人物は誰か」と尋ねるアンケートを行いました。
 イギリスのチャーチル首相や、フランスのドゴール大統領など、錚々たる歴史の巨人の名前が挙がりました。
 そこで、6000人の通行人が一番多く筆頭に挙げたのは、いったい誰であったか?
 マリー・キュリーその人であった、というのです!
 2006年の11月、フランスでは、「マリー・キュリーの記念コイン(20ユーロの金貨・銀貨)」が発行されました。
 これは、1906年の11月、彼女が亡き夫ピエールに代わり、女性で初めてパリ大学の教壇に立ってから100周年を記念して、作成されたものです。
 さらにまた、昨年には、パリ市内を走る地下鉄の一つの駅が、改装オープンに当たり、「ピエール・エ・マリー・キュリー駅」と夫妻の名前が付けられました。これは、3月8日の「国際女性の日」にちなんだものです。
 マリー・キュリーという存在は、その夫ピエールとともに、今も生き生きと、人々の心のなかに生き続けているのです。

 波潤万丈の生涯 
 一、それは、今から36年前(1972年)の4月30日の朝のことです。
 20世紀最大の歴史家トインビー博士と、私が対談を開始する5日前のことでありました。
 私と妻はフランスの友人とともに、パリ郊外のソーにある、マリー・キュリーの家を訪ねました。
 3階建ての赤い屋根の家。そこには銘板が設置されており、1907年から1912年の間、マリー・キュリーが暮らしたことが刻まれていました。
 この家で暮らした期間は、マリーにとって、最愛にして不二の学究の同志である夫ピエールを亡くした直後に当たります。
 そしてまた理不尽な迫害など、幾多の試練を乗り越えていった時期でもあります。
 さらに、1910年、「金属ラジウムの単離」に成功し、翌年、ノーベル化学賞の栄誉が贈られたのも、この家で過ごした時代のことでした。
 私は家の門の前に、しばし、たたずみ、マリー・キュリーの波瀾万丈の生涯に思いをはせました。
 ──生まれた時は、すでに外国の圧制下にあった、祖国ポーランドでの少女時代。
 幼くして、最愛の母や姉と、相次いで死別した悲しみ。
 好きな勉強がしたくても、許されず、不遇な環境で、じつと耐え続けながら学んだ青春時代。
 親元を離れ、大都会で、貧苦のなか、猛勉強に明け暮れた留学の一日また一日。
 女性に対する差別もあった。卑劣な嫉妬や、外国人であるゆえの圧迫もあった。
 さらに、愛する夫との突然の別れ。そして戦争、病気......。
 絶望のあまり、生きる意欲さえ失いそうになることもあった。
 けれども、彼女は、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
 断じて屈しなかった。絶対に負けなかった。

順風満帆の人生などない。むしろ困難ばかりです。
マリー・キュリーの偉大さは「悲哀に負けない強さ」にある。

 そして、苦難を押し返していったのです。
 私は、妻と一緒に並んで歩いていた、フランスの清々しい創価の乙女に語りかけました。
 「私は、マリー・キュリーの偉大さは、二つのノーベル賞を取ったということより、『悲哀に負けない強さ』にこそあると思う。
 順風満帆の人生など、ありえない。むしろ困難ばかりです。
 それを乗り越えるには、自分の使命を自覚することです。そこに希望が生まれるからです」
 あの時、瞳を輝かせ、深くうなずいていた彼女も、気高い使命の人生を、鋼鉄の信念の夫とともに、希望に燃えて歩み抜いてこられました。
 今では、3人のお子さん方も、その父と母の使命の道を受け継いで、立派に社会で活躍しております。

創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1-2に続く

ブログ はればれさんからのコピーです。