2008年2月8日 聖教新聞 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1-2
2008年2月8日 聖教新聞
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1-2
全員が幸福に。全員が勝利者に。知性と福徳輝く「女性の世紀」のリーダー
として羽ばたいてほしい──創価女子短大生の成長をだれよりも願い、励ま
しを贈り続ける創立者・池田名誉会長夫妻(1990年4月28日、同女子短大で)
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戦う勇気、耐え抜く勇気を!
一、マリー・キュリーは青春時代、友人への手紙に、こう記しました。
「第一原則、誰にも、何事にも、決して負けないこと」(スーザン・クイン著・田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
「決して負けない」──これが、彼女の一生を貫いた金剛の一念です。
この一点を定めた人生は、強い。
私の妻のモットーも、「勝たなくてもいいから、負けないこと」「どんな事態、状況になっても負けない一生を」です。
戦時中、特高警察の監視のなか、堂々と正義の信念を叫び抜く牧口先生の師子王の姿を、幼き日の妻は、自宅の座談会で目の当たりにし、生命の奥深くに焼きつけました。
そして、そのあとを継がれた戸田先生を人生の師匠と仰ぎ、「負けないこと」を鉄則として、黙々と使命を遂行してきたのです。
アインシュタイン博士は、マリー・キュリーを追憶する一文の中で書いています。
「まったくの知的な作業の面で彼女が何をなしとげたか、ということ以上に、おそらく、ひとつの世代そして歴史の一時代を画するものとして重要なのは、その傑出した人格の内面的な質ではないでしょうか」(高木仁三郎著『マリー・キュリーが考えたこと』岩波書店)
彼女の傑出した人格の特質──。それは、第一に「負けない勇気」であったといってよいでしょう。
「勇気」がなければ、どんなに人柄がよくても、人々を守ることはできない。
偉大な使命を果たすことはできません。
戦う勇気!
恐れない勇気!
そして耐え抜く勇気!
この勇気を、マリー・キュリーは、いかに鍛え、いかに奮い起こしていったのか。
私と妻にとって、最愛の娘の存在である創価女子短大生、また創価大学、アメリカ創価大学の女子学生、さらに、創価学園の女子生徒の皆さん、そして、すべての創価の女性に、万感の期待を込めて、お話ししていきたいと思います。
短大は創価三代の夢の結実
「女性の世紀」のリーダーに!
また、短大を受験してくださった皆さんは、全員が、一生涯、短大姉妹です。
試験だから、どうしても合格・不合格はある。しかし、短大という場に来て戦ったこと自体は、厳然と生命に残る。それは、生涯、消えない。
ですから、何があっても、朗らかに、生命の王女としての誇りを持って、堂々と「誉れの青春」を生き抜いてほしいのです。
私ども夫婦は、創価女子短大を受けてくださった皆さん全員の勝利と幸福の人生を、真剣に祈っています。
一、マリー・キュリーは、19世紀から20世紀への転換期を、あの像の姿のごとく、毅然と頭を上げて、胸を張って生き抜きました。
皆さん方もまた、学び勝ちゆく晴れ姿で、20世紀から21世紀への転換期を生き抜き、不滅の歴史を創り残していただきたい。
皆さん方こそ、人類の希望と光る「女性の世紀」の旭日のリーダーだからです。
向学の乙女が花の都・パリへ
一、フランスと北東ヨーロッパを結ぶ交通の要衝が、花の都のパリ北駅です。
私も、このパリ北駅から急行列車に乗って、5時間かけて、オランダの首都アムステルダムへと旅した思い出があります。25年前の1983年6月25日のことです。
私たちが乗る「北極星号」は夕刻に出発し、途中、停車したベルギーのブリュッセルでは、わざわざ待ってくれていた同志とともに、ホームで記念撮影をしました。
次のアントワープ駅でも、わずか1分の停車時間でしたが、同志と窓越しに心を通わせあったことが、今も胸から離れません。
──時代は19世紀の終わりに遡ります。
1891年の11月の早朝、パリ北駅のプラットホームに列車が到着しました。
長旅に疲れた多くの乗客とともに、一人の若い女性が、荷物を抱えて降り立ちました。
ポーランドのワルシャワから、3日間、ずっと4等車で揺られてきたの
ですから、くたびれていないわけがありません。身なりも質素そのものでした。
初めての大都会。まったく見知らぬ人々。不安がないと言えば嘘になるでしょう。
しかし、その心には、熱い熱い向学の魂が燃え盛っていました。
この乙女こそ、若き日のマリー・キュリーなのです。
私の胸には、その誇り高き「第一歩」の足音が、寮生をはじめ、親元を離れて私の創立したキャンパスに集ってくださった学生の皆さん、そして留学生の皆さん方の決意の足どりと重なり合って、響いてくるのです。
この時、彼女は23歳。女学校を卒業してから、すでに8年が経っていました。今であれば、大学を卒業している年頃です。一家全体の家計と学費の問題など、留学できるように環境を整えるまで、それだけの年月が必要であったのです。
学生生活にあっては、いわゆる浪人や留年、休学など、さまざまな事情で、人より年数がかかる場合もある。
しかし、人と比べて、くよくよすることはない。人生の戦いは長い。途中の姿で一喜一憂することはありません。
最後に勝っていけば、よいからです。青春の生命に失望などない。
もちろん、お父さんやお母さんには、よけいな心配をかけないように、努力を重ね、賢明な選択をすること。そして、必ず喜んでもらえる自分自身になって、親孝行をしていくこと。
この一点は、絶対に忘れてはなりません。
人と比べるな くよくよするな 最後に勝てばいい
他国の支配下での少女時代
一、ここで、留学に至るまでのマリー・キュリーの歩みをたどっておきたいと思います。
マリーがポーランドのワルシャワに生まれたのは、1867年11月でした。日本では、江戸幕府の終焉となる大政奉還が行われた、明治維新の時代です。
ともに優れた教育者であった父と母のもと、5人きょうだいの末っ子として誕生しました。生まれた時の名前はマリア・スクウォドフスカ。3人の姉と一人の兄がおり、「マーニャ」との愛称で呼ばれていました。
このワルシャワの生家のすぐそばには、ポーランドSGI(創価学会インタナショナル)のマルケピッチ婦人部長のお宅があります。
このお宅では、いつも明るく、地域の座談会が開かれ、平和と革福への実りある語らいが広がっております。
マーニャが生まれた当時、愛する祖国ポーランドは帝政ロシアの支配下にありました。ポーランド語の看板を通りに掲げることも許されない。ポーランドの歴史や言葉を教えることも厳禁。人々は不自由と屈辱の生活を強いられていたのです。
マーニャが通っていた学校にも、視学官が頻繁にやってきては、教育内容を厳しく監視していました。
もしも、自国のポーランド語で話したりすれば、自分だけでなく、両親にまで危険が及んでしまう。そんなひどい状況だったのです。
しかし、そうした環境であったにもかかわらず、マーニャの心が卑屈になることはありませんでした。
それは、思いやりにあふれた、温かな家族の絆があったからです。
お父さんは大変な勉強家で、人に教えることが大好きな人物でした。最新の科学に通じているとともに、何カ国語も話すことができました。
お母さんも、20代で女学校の校長を務めるなど、まことに教養ある女性でした。マーニャは、この父母を、心から愛してやまなかったのです。
世の中は暗い。つらいことも、たくさんある。けれども、家に帰れば、安心できる。何があっても家族で励まし合い、守り合っていける。
そうした和楽の家庭をつくっていくことが、社会の最も大切な基盤であり、平和の原点となるでしょう。
そして、何といっても、娘である皆さんの聡明さと、明るい笑顔は、家族を照らす陽光であり、和楽を築く大きな力です。
「家族のものが互いに結び合っているということは、ほんとうにこの世での唯一の幸福なのですよ」(エーヴ・キュリー著・川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、マリー・キュリーはのちに、姉への手紙に綴っています。
家族の結合は、ともに人生の試練に立ち向かっていくなかで、深まり、強まり、そして永遠性の次元にまで高められていくものです。
愛する家族の死を越えて
一、マーニャは、まだ10歳のとき、思いもよらぬ悲しみに襲われました。
最愛のお母さんが、結核で亡くなってしまったのです。42歳という若さでした。
じつは、その2年前には、病弱だったお母さんに代わって家事を切り盛りしてくれていた、一番上の優しいお姉さんも、チフスに感染して亡くなっていました。
相次ぐ家族の死去に、一家は打ちひしがれました。幼いマーニャは、こらえきれず、部屋の隅に座って涙を流すこともあったようです。
幼くして、家族を亡くすことは、一番、深い悲しみです。しかし、マーニャは、のちに自ら打ち立てた「第一原則」の通り、「決して負けなかった」のです。
「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」(北御門二郎訳『文読む月日(上)』筑摩書房)とは、自らも幼くして母を亡くした、ロシアの文豪トルストイの言葉です。
創価学園の草創期、お母さんを亡くした中学生に、私は語ったことがあります。
「人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだよ。
深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれる。偉人は、みんなそうだ。
だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ」
その通りに、彼は、わが母校を"母"とも思いながら、大きな山を、学園生らしく越えていきました。
一人の勝利は、亡き家族の勝利であり、一家の勝利です。
そして、苦難を乗り越えた前進の足跡は、未来に生きゆく人々に、計り知れない勇気と希望を贈っていくのです。
(つづく)
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1〔つづく〕
ブログ はればれさんからのコピーです。
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1-2
全員が幸福に。全員が勝利者に。知性と福徳輝く「女性の世紀」のリーダー
として羽ばたいてほしい──創価女子短大生の成長をだれよりも願い、励ま
しを贈り続ける創立者・池田名誉会長夫妻(1990年4月28日、同女子短大で)
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戦う勇気、耐え抜く勇気を!
一、マリー・キュリーは青春時代、友人への手紙に、こう記しました。
「第一原則、誰にも、何事にも、決して負けないこと」(スーザン・クイン著・田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
「決して負けない」──これが、彼女の一生を貫いた金剛の一念です。
この一点を定めた人生は、強い。
私の妻のモットーも、「勝たなくてもいいから、負けないこと」「どんな事態、状況になっても負けない一生を」です。
戦時中、特高警察の監視のなか、堂々と正義の信念を叫び抜く牧口先生の師子王の姿を、幼き日の妻は、自宅の座談会で目の当たりにし、生命の奥深くに焼きつけました。
そして、そのあとを継がれた戸田先生を人生の師匠と仰ぎ、「負けないこと」を鉄則として、黙々と使命を遂行してきたのです。
アインシュタイン博士は、マリー・キュリーを追憶する一文の中で書いています。
「まったくの知的な作業の面で彼女が何をなしとげたか、ということ以上に、おそらく、ひとつの世代そして歴史の一時代を画するものとして重要なのは、その傑出した人格の内面的な質ではないでしょうか」(高木仁三郎著『マリー・キュリーが考えたこと』岩波書店)
彼女の傑出した人格の特質──。それは、第一に「負けない勇気」であったといってよいでしょう。
「勇気」がなければ、どんなに人柄がよくても、人々を守ることはできない。
偉大な使命を果たすことはできません。
戦う勇気!
恐れない勇気!
そして耐え抜く勇気!
この勇気を、マリー・キュリーは、いかに鍛え、いかに奮い起こしていったのか。
私と妻にとって、最愛の娘の存在である創価女子短大生、また創価大学、アメリカ創価大学の女子学生、さらに、創価学園の女子生徒の皆さん、そして、すべての創価の女性に、万感の期待を込めて、お話ししていきたいと思います。
短大は創価三代の夢の結実
「女性の世紀」のリーダーに!
また、短大を受験してくださった皆さんは、全員が、一生涯、短大姉妹です。
試験だから、どうしても合格・不合格はある。しかし、短大という場に来て戦ったこと自体は、厳然と生命に残る。それは、生涯、消えない。
ですから、何があっても、朗らかに、生命の王女としての誇りを持って、堂々と「誉れの青春」を生き抜いてほしいのです。
私ども夫婦は、創価女子短大を受けてくださった皆さん全員の勝利と幸福の人生を、真剣に祈っています。
一、マリー・キュリーは、19世紀から20世紀への転換期を、あの像の姿のごとく、毅然と頭を上げて、胸を張って生き抜きました。
皆さん方もまた、学び勝ちゆく晴れ姿で、20世紀から21世紀への転換期を生き抜き、不滅の歴史を創り残していただきたい。
皆さん方こそ、人類の希望と光る「女性の世紀」の旭日のリーダーだからです。
向学の乙女が花の都・パリへ
一、フランスと北東ヨーロッパを結ぶ交通の要衝が、花の都のパリ北駅です。
私も、このパリ北駅から急行列車に乗って、5時間かけて、オランダの首都アムステルダムへと旅した思い出があります。25年前の1983年6月25日のことです。
私たちが乗る「北極星号」は夕刻に出発し、途中、停車したベルギーのブリュッセルでは、わざわざ待ってくれていた同志とともに、ホームで記念撮影をしました。
次のアントワープ駅でも、わずか1分の停車時間でしたが、同志と窓越しに心を通わせあったことが、今も胸から離れません。
──時代は19世紀の終わりに遡ります。
1891年の11月の早朝、パリ北駅のプラットホームに列車が到着しました。
長旅に疲れた多くの乗客とともに、一人の若い女性が、荷物を抱えて降り立ちました。
ポーランドのワルシャワから、3日間、ずっと4等車で揺られてきたの
ですから、くたびれていないわけがありません。身なりも質素そのものでした。
初めての大都会。まったく見知らぬ人々。不安がないと言えば嘘になるでしょう。
しかし、その心には、熱い熱い向学の魂が燃え盛っていました。
この乙女こそ、若き日のマリー・キュリーなのです。
私の胸には、その誇り高き「第一歩」の足音が、寮生をはじめ、親元を離れて私の創立したキャンパスに集ってくださった学生の皆さん、そして留学生の皆さん方の決意の足どりと重なり合って、響いてくるのです。
この時、彼女は23歳。女学校を卒業してから、すでに8年が経っていました。今であれば、大学を卒業している年頃です。一家全体の家計と学費の問題など、留学できるように環境を整えるまで、それだけの年月が必要であったのです。
学生生活にあっては、いわゆる浪人や留年、休学など、さまざまな事情で、人より年数がかかる場合もある。
しかし、人と比べて、くよくよすることはない。人生の戦いは長い。途中の姿で一喜一憂することはありません。
最後に勝っていけば、よいからです。青春の生命に失望などない。
もちろん、お父さんやお母さんには、よけいな心配をかけないように、努力を重ね、賢明な選択をすること。そして、必ず喜んでもらえる自分自身になって、親孝行をしていくこと。
この一点は、絶対に忘れてはなりません。
人と比べるな くよくよするな 最後に勝てばいい
他国の支配下での少女時代
一、ここで、留学に至るまでのマリー・キュリーの歩みをたどっておきたいと思います。
マリーがポーランドのワルシャワに生まれたのは、1867年11月でした。日本では、江戸幕府の終焉となる大政奉還が行われた、明治維新の時代です。
ともに優れた教育者であった父と母のもと、5人きょうだいの末っ子として誕生しました。生まれた時の名前はマリア・スクウォドフスカ。3人の姉と一人の兄がおり、「マーニャ」との愛称で呼ばれていました。
このワルシャワの生家のすぐそばには、ポーランドSGI(創価学会インタナショナル)のマルケピッチ婦人部長のお宅があります。
このお宅では、いつも明るく、地域の座談会が開かれ、平和と革福への実りある語らいが広がっております。
マーニャが生まれた当時、愛する祖国ポーランドは帝政ロシアの支配下にありました。ポーランド語の看板を通りに掲げることも許されない。ポーランドの歴史や言葉を教えることも厳禁。人々は不自由と屈辱の生活を強いられていたのです。
マーニャが通っていた学校にも、視学官が頻繁にやってきては、教育内容を厳しく監視していました。
もしも、自国のポーランド語で話したりすれば、自分だけでなく、両親にまで危険が及んでしまう。そんなひどい状況だったのです。
しかし、そうした環境であったにもかかわらず、マーニャの心が卑屈になることはありませんでした。
それは、思いやりにあふれた、温かな家族の絆があったからです。
お父さんは大変な勉強家で、人に教えることが大好きな人物でした。最新の科学に通じているとともに、何カ国語も話すことができました。
お母さんも、20代で女学校の校長を務めるなど、まことに教養ある女性でした。マーニャは、この父母を、心から愛してやまなかったのです。
世の中は暗い。つらいことも、たくさんある。けれども、家に帰れば、安心できる。何があっても家族で励まし合い、守り合っていける。
そうした和楽の家庭をつくっていくことが、社会の最も大切な基盤であり、平和の原点となるでしょう。
そして、何といっても、娘である皆さんの聡明さと、明るい笑顔は、家族を照らす陽光であり、和楽を築く大きな力です。
「家族のものが互いに結び合っているということは、ほんとうにこの世での唯一の幸福なのですよ」(エーヴ・キュリー著・川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、マリー・キュリーはのちに、姉への手紙に綴っています。
家族の結合は、ともに人生の試練に立ち向かっていくなかで、深まり、強まり、そして永遠性の次元にまで高められていくものです。
愛する家族の死を越えて
一、マーニャは、まだ10歳のとき、思いもよらぬ悲しみに襲われました。
最愛のお母さんが、結核で亡くなってしまったのです。42歳という若さでした。
じつは、その2年前には、病弱だったお母さんに代わって家事を切り盛りしてくれていた、一番上の優しいお姉さんも、チフスに感染して亡くなっていました。
相次ぐ家族の死去に、一家は打ちひしがれました。幼いマーニャは、こらえきれず、部屋の隅に座って涙を流すこともあったようです。
幼くして、家族を亡くすことは、一番、深い悲しみです。しかし、マーニャは、のちに自ら打ち立てた「第一原則」の通り、「決して負けなかった」のです。
「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」(北御門二郎訳『文読む月日(上)』筑摩書房)とは、自らも幼くして母を亡くした、ロシアの文豪トルストイの言葉です。
創価学園の草創期、お母さんを亡くした中学生に、私は語ったことがあります。
「人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだよ。
深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれる。偉人は、みんなそうだ。
だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ」
その通りに、彼は、わが母校を"母"とも思いながら、大きな山を、学園生らしく越えていきました。
一人の勝利は、亡き家族の勝利であり、一家の勝利です。
そして、苦難を乗り越えた前進の足跡は、未来に生きゆく人々に、計り知れない勇気と希望を贈っていくのです。
(つづく)
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 1〔つづく〕
ブログ はればれさんからのコピーです。