2008年6月25日 聖教新聞  随筆人間世紀の光 162 尊き師弟の物語-1  山本 伸一

2008年6月25日 聖教新聞
随筆人間世紀の光 162 尊き師弟の物語-1  山本 伸一

一切は「人材」で決まる 青年を育てよ! 励まし伸ばせ!

わが使命ある弟子よ不滅の歴史を創れ!
 松陰と晋作の如く 勝利の「志」の炎を!

 わが青春
   悔いることなく
    万歳と
  叫ばむ 誉れの
     師弟の絆よ

  「山は樹を以て茂り
  国は人を以て盛なり」
 明治維新を担う人材を育て、新しき日本の夜明けを開いた吉田松陰の言葉である。
 すべては「人」で決まる。
 人をつくり、人を育てよ!
 人を励まし、人を伸ばせ!
 この地道な積み重ねこそが、時代を変え、歴史を動かすのだ。
 その人材育成の根本の力は、いったい何か。
 吉田松陰は記している。
 「徳を成し材を達するには、師恩 友益 多きに居り」
 ──人として、徳を身につけ、才能を開かせるには、師匠の恩と良友からの益が多い、というのである。
 松陰が松下村塾で教えたのは、決して長い期間ではない。短くとれば一年余、長くとっても二年十カ月──この間の塾生は百人に満たず、近年の厳密な研究では九十二人とも言われる。
 尊き師弟と同志に磨き上げられた若き逸材が、綺羅星の如く、大いなる歴史の回天の劇へ、躍り出ていったのだ。
     ◇
 戸田先生は、折にふれて、「松陰と、その門下は美しいな。尊い師弟の物語を残したよ」と語られていた。
 この松陰と弟子の実像に、牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私を重ね合わせておられたのである。
 戸田先生にとって、信念の大教育者・吉田松陰は、常に師・牧口先生と二重写しの存在であった。
 あの戦時中の法難で、牧口先生が軍部政府から不当に逮捕された伊豆の下田は、奇しくも、嘉永七年(一八五四年)、松陰が囚われの身となった宿縁の天地でもある。
 とともに、戸田先生ご自身が、松陰の如く、こよなく青年を愛し育まれる、稀有の人間教育者であられたのだ。
 山口県・萩の松下村塾の小さな講義室──四畳半に始まり、次いで八畳間、最後は十八畳半の講義室から、天下の人材が陸続と巣立った。
 同じように、東京・西神田の小さな学会本部から、生命尊厳の大哲学を掲げた平和革命の大指導者を、世界へ羽ばたかせてみせる!──これが戸田先生の自負であり、決意であられた。
     ◇
 松陰の
  愛弟子
   高杉晋作
  維新を成し遂げ
    君らも同じく

 松陰一門のなかでも、戸田先生が格別にお好きであったのが、高杉晋作である。
 「歴史上、会って語りたい人物」の筆頭に挙げられた。
 晋作は親友である久坂玄瑞と共に、松陰門下の「双壁」「竜虎」と謳われた。後輩たちは「玄瑞の才学」と「晋作の気迫」を模範と仰いだ。
 この二人に、同じく維新の途上に殉じた、入江九一吉田稔磨を加えて、松陰一門の「四天王」とも讃えられる。
 いかなる陣列にも、要となり、柱となる存在が不可欠である。そうでなければ、鳥合の衆となってしまうからだ。


晋作は19歳で弟子に

 師匠・吉田松陰に、弟子・高杉晋作が入門したのは、何歳の時であったか。
 それは数えで十九歳であった(安政四年=一八五七年)。人生の求道の年代である。
 思えば、昭和二十二年(一九四七年)の八月、戸田先生は、座談会に出席した初対面の私に尋ねられた。
 「池田君は、幾つになったね?」
 旧知の親しみと懐かしさを湛えた声の響きであった。
 「十九歳です」
 「そうか、十九歳か......」
 先生は、感慨深げであられた。
 北海道から上京した若き戸田先生が、生涯の師と仰ぐ牧口先生に会われたのも、この年齢であった。
 今、学会も、十代、二十代のヤングの世代が溌剌と躍動している。我らの創価山には、若き人材の伸びゆく大樹が瑞々しく茂り、眩いばかりだ。
 先生は、よく私を「大作、大作」と呼ばれながら、いつしか「晋作、晋作」と言われていることがあった。
 「奇兵隊の創設」、そして「幕府軍への勝利」と、師の仇を討ち、師の理想を実現していった愛弟子こそ、高杉晋作である。
 かつて聖教新聞に、作家の山岡荘八先生は、小説『高杉晋作』を連載してくださった。私の『冒険少年』『少年日本』の若き編集長時代、子どもたちに偉大な夢を贈る傑作を執筆してくださって以来の深い交友である。
 山岡先生は、晋作を「松陰の『不惜身命──』の境地をそのまま怒涛逆まく時代の中で実践してみせた分身」と評されていた。
 松陰なくして、晋作はなかった。そしてまた晋作なくして、松陰もなかったのである。
     ◇
 ある時、私は詠い残した。

 松陰の
  全集懐かし
   青春の
  炎の時代に
    幾度読みしか

 松陰の全集には、記されている。
 「もし僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継くの士をば後世に残し置くなり」
 ──たとえ、志半ばにして刑死しようとも、わが志を受け継ぎ、成就する青年を育て残しておく。これが、松陰の覚悟の一念であった。
 教えを請う弟子に対して、松陰は、必ず「何のために学問するのか」と尋ねたという。
 「書物がよく読めるようになりたい」と答える弟子に対しては、「人は実行が第一である」と厳しく教えた。
 その「実行」とは、世のため人のために大誠実を貫き、天下を変えていく行動である。
 松陰は、この大志を果たしゆくための才能は、誰人ももっていると信じた。
 そして教育によって、その力を伸ばし、大成させることができると、自らの実践を通して確信してやまなかったのである。
 人材とは、見出すものだ。そして、信じて育てていくものである。
 私が、二冊の対談集を発刊したモスクワ大学のサドーブニチィ総長の言葉が、感銘深く思い起こされる。
 「目の前に座る一人の若者のなかに秘められた英知と才能の萌芽を見て取ることができるのは、ただただ人間の目であり、教育者の目ではないでしょうか」
 師の眼は、無言のうちに、ある時は励まし、ある時は叱咤し、常に弟子の勝利を祈り見つめてくれているものだ。
 偉大な師のもとで、晋作は、ぐんぐん伸びていった。
 その成長を喜び、松陰は綴っている。
 「晋作の学業は急速に進歩し、議論もますます卓越してきたので、同志は皆、(彼が言うところを)襟を正して聴くようになった。私(松陰)も議論するたびに、よく晋作の意見を引いて結論づけるようになった」と。
 弟子から学びながら、師弟共に前進していこうという松陰の大きさが伝わってくる。
 わが師・戸田先生もまた、若き私に、満腔の期待と信頼をもって、接してくださった。
 事業においても、また広宣流布の展開においても、思い切って私の意見を採用され、指揮を任せてくださったのである。
 この師の信任に師子奮迅の力でお応えしたのが、私の誇り高き青春であった。
 ゆえに、私は一点の後悔もない。
      ◇
 立ち上がれ
   巌も砕く
     師弟不二

 師・松陰は叫んだ。
 「義は勇に因(よ)りて行はれ
  勇は義に因りて長ず」
 ──正義は、勇気によって実行される。勇気は、正義によって成長する、と。
 「正義」即「勇気」の魂の継承こそ、師弟の真髄である。
 「讒人 (ざんにん)世に在るは古(いにしえ)も今の如し」
 ──卑劣な讒言で人を陥れる人間が世にはびこるのは、昔も今も同じである。
 晋作の痛憤であった。
 讒言は、荘厳な師弟の世界とは対極に位置する罪悪だ。
 ところで松下村塾は、一時期、大勢の入門希望者で賑わった。だが、安政五年(一八五八年)暮れ、松陰が再び投獄されると、門下には「乱民」などと非難が浴びせられ、その家族までも、村八分に遭ったりしたという。
 そうした厳しい条件下では、偽物の弟子は必ず消え去っていくものだ。浅ましい臆病者や卑しい恩知らずは、自ずから淘汰される。
 松陰門下には、真実の弟子のみが残った。勇敢なる師弟の連帯となったからこそ、新しき時代を創り開く力が、全開していったのだ。

獄中の師を支えて

 悔しくも
  明るく指揮とれ
    名将と
   時代の回転
    鋭く見つめて

 安政六年(一八五九年)の七月、江戸の牢獄に囚われた松陰にとって最大の心の支えなったのは、前年から江戸にいた愛弟子・晋作であった。
 この月に書かれた、現存する松陰の書簡八通は、すべて晋作に送られている。
 晋作は、松陰が所望した兵法書孫子』の手配や入り用の金の工面などにも奔走した。獄中の師をお守りせんと、一心不乱に奮闘したのである。
 師匠が最も大変な時に、どう戦ったのか。
 そこにこそ、究極の「弟子の道」が光る。
 松陰は"晋作は、真によく私を知る"と絶大な信頼を寄せ、他の弟子にも"晋作と密接に連携をとりなさい"と書き送っている。

随筆人間世紀の光 162 尊き師弟の物語-2に続く

ブログ はればれさんからのコピーです。