2008年6月25日 聖教新聞  随筆人間世紀の光 162 尊き師弟の物語  山本 伸一

2008年6月25日 聖教新聞
随筆人間世紀の光 162 尊き師弟の物語  山本 伸一

 師・戸田先生の事業の絶体絶命の窮地にあって、私は、先生に、ただ一人お仕えして阿修羅の如く戦い抜いた。
 先生が背負った莫大な負債も、全部、返済の道を開いた。
 そして、先生に弓を引いた忘恩の弟子どもを叱り飛ばしながら、第二代会長の就任の晴れ舞台を厳然と築き上げたのだ。弟子の誠を尽くし切った一日また一日であった。
 「大作さえ、いてくれれば大丈夫だ!」──そう言われて、先生が悠然と広布の指揮を執ってくださることが、私の無上の喜びであり、誉れであった。
     ◇
 三類の
   強敵 破らむ
     我らのみ
  広宣流布
    仏勅 誇りと

 松陰の殉難後、晋作の胸に炎と燃えていたのは、師匠の仇討ちの一念であった。
 一カ月後の初命日を前に認めた手紙には、「仇を報い候らわで安心仕(つかまつ)らず候」「ただ日夜我が師の影を慕い激歎(げきたん)仕るのみ」と、血涙を絞るように書き留めている。

弟子もまた牢獄に

 元治元年(一八六四年)三月、晋作は、藩命に従わなかった罪で、師と同じ「野山獄(のやまごく※巻末参照)」に投獄された。
 その入獄の日に、晋作は一句を詠んだ。
 「先生を
    慕うて漸(ようや)く
       野山獄」
 この時、晋作が入れられた牢は、十年前(一八五四年)、師が最初に野山獄に投獄された際に、一時入った牢と同じであったと言われる。
 この獄中で、日々読書し、思索し、詩を高吟する晋作を、囚人の一人が、あざ笑った。
 すると晋作は、師・松陰の教えを滔々と語り、「余の行なうところ先師の言と真に符節を合する如し」と、毅然と言い切ったのである。
 師弟に徹する人生に、恐れはない。惑いもない。逡巡もない。苦難は即栄光と変わる。
 戸田先生は、戦時中、牧口先生の弟子として、二年間の獄中闘争を戦い抜かれた。
 出獄されたのは、昭和二十年(一九四五年)の七月三日、午後七時であった。
 あの大阪事件の折、私が無実の罪で逮捕、入獄したのは、不思議にも、その十二年後の同じ日、同じ時刻であった。
 「先生の出獄の日に、私は牢に入りました」と申し上げると、先生の眼差しは、深い強い光を放たれた。
 蓮祖は、佐渡流罪の大難のなかで、仰せになられた。
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書九五七ページ)
 創価の師弟は、御聖訓通り、「三障四魔」「三類の強敵」が競い起これば起こるほど、いよいよ、この「師子王の心」を燃え上がらせてきた。
 そして、断固として魔軍を打ち破り、師匠を厳護して、より高い次元へ、広宣流布の大発展の道を開いてきたのだ。
 未来永遠に、この師弟の常勝の大道は不滅である。
     ◇
 なお、松陰が辞世の歌に、「親思ふこころにまさる親ごころ......」と詠んだことは、歴史に名高い。
 晋作もまた、"自分を思ってくれる母の情には、いかなる志も及ばない"と詠じている。
 真撃な親孝行の心も、師弟は深く共通していた。
 日蓮大聖人は、若き南条時光に教えてくださった。
 「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(同一五二八ページ)と。
 広宣流布に生きゆく青春は、最高無上の親孝行を果たせる生命の軌道である。
 わが青年部は、この大確信をもって、父母を大切にしていっていただきたい。
     ◇
 忘れまじ
  維新の晋作
   そしてまた
  広布の大作
    君らと共なり

 「能(あた)はぎるに非(あら)ざるなり、為(な)さざるなり」(できないのではない。ただ、やらないだけである)
 有名な松陰の叱咤である。
 松陰は「草莽崛起(そうもうくっき)」(民衆決起)の構想を抱いていた。すなわち民衆が立ち上がれば、必ずや巨大な力を発揮すると、見通していたのである。
 これは、日蓮大聖人から、松陰が学びとった信条であることは、有名な史実だ。
 この民衆革命のビジョンを、「奇兵隊」として具現化していったのが、晋作である。
 元治元年(一八六四年)の暮れには、晋作は下関の地で、わずか八十人ほどの無名の兵士たちを率いて決起した。ここから、形勢が一変し、倒幕への流れが加速していったのである。

動けば雷電の如く!

 時を逃さず、電光石火のスピードで打って出る。ここに、勝利を決するカギがある。
 昭和三十一年(一九五六年)の九月、戸田先生と私は、全国の情勢を精査した。
 結論として、先生は言われた。
 「山口広布が遅れている。大作、行ってくれるか」
 「はい! わかりました」
 戦いの急所を見極めたら、即断即決である。
 「また池田君が行くのか」とヤキモチを焼いて、面白くない顔をする先輩幹部もいたが、私は歯牙にもかけなかった。ただ、恩師の構想を実現することだけが、私の鋼鉄の決心であったからだ。
 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と謳われた若き晋作の勇姿を思い描きながら、私は、健気な同志と共に山口の天地を走り抜いた。
 十月を第一期として、翌年一月まで、三度にわたる開拓指導により、山口の創価の陣列は、一気に十倍近い拡大を果たしたのである。
 日本列島が震撼した。
 戸田先生のご生涯の総仕上げの時を飾りゆく、大きな大きな拡大の布石となった。
 つい先日(六月七日)の青年部幹部会にも、山口県から凛々しき青年たちが馳せ参じていた。
 二十一世紀の若き創価の晋作たちは、私と共に、新たな広宣流布の開拓闘争を開始してくれている。
     ◇
 革命は
  生死 超えたる
    劇なれば
  三世に舞いゆけ
     名優 誇りに

 「生きて大業の見込みがあれば、あえて生き続けなければならない」
 数え年三十歳で殉じた松陰が、愛弟子・晋作に教え託した遺命(ゆいめい)であった。
 しかし、その晋作も病に倒れ、二十九歳で早世した。
 戸田先生は、私が晋作のように三十歳まで生きられないのではないかと心配され、慟哭なされた。
 「あまりにも、大作に苦労をかけてしまった。自分の命を代わりにあげて、なんとか長生きさせたい」
 この計り知れない師の慈愛に包まれて、戸田先生と一体不二の生命で、私は傘寿を迎えることができたのである。
     ◇
 かつて、私は山口青年部の友に、一言を贈った。
 「松陰は刑死 君は継志」
 大事なことは、いかなる局面にあっても、師の志を我が志として、決然と行動を起こすことだ。
 松陰は、厳粛に戒めている。
 「人は晩節を全うするに非ざれば、何程 才智学芸ありと雖も、亦 何ぞ尊ぶに足らんや」
 人間の真価は、人生の最後で決まる。
 自らの志を捨て去り、晩節を汚すことはど、人間として醜悪な敗残の姿はないのである。
 恩知らずの愚劣な退転反逆の者たちに、この松陰の叫びを、唾を吐きながら言い放ちたいと、ある幹部が真剣に憤怒していたことが、忘れられない。
 松陰は遺言している。
 「我れを知るは 吾が志を張りて 之れを大にするに 如かざるなり」
 ──弟子たちよ、どうか、わが「志」を押し広げ、これを大いに満天下に宣揚していってくれたまえ! これ以上に、私という人間をよく知る道はないのだ、と。
 今、嬉しいことに、世界の最高峰の知性が、私たちが歩みゆく「師弟の道」に人間教育の希望の光を見出してくださっている。
 現代中国を代表する歴史学者の章開玩(しょうかいげん)・華中師範大学元学長も語ってくださった。
 「創価の師弟は、ソクラテスプラトンの師弟に勝るとも劣らない、歴史に特筆すべき輝きを放っております」
 さあ、いよいよ、太陽輝く七月へ!
 躍動する「青年の月」へ! ともあれ、偉大なる創価の師弟は、断固とすべてに勝ちまくっていくのだ。
 人類の幸福と平和という、世界広宣流布の大願を高く掲げ、さらに壮大なる創価の「師弟の物語」を、来る日も来る日も、綴り築こうではないか!

 すばらしき
   この世の人生
    飾りゆけ
  師弟の道は
     無限の宝と

 (随時、掲載いたします)

 吉田松陰及び高杉晋作の言葉は、山口県教育会編『吉田松陰全集』3・4・5・8・9・12(原文の数字は、丸数字)(岩波書店)、堀哲三郎編『高杉晋作全集』上下(新人物往来社)=現代表記または現代訳にした。他に川口雅昭著『吉田松陰名語録』(致知出版社)、冨成博著『高杉習作 詩と生涯』(三一書房)を参照。松下村塾の塾生の数などは海原徹著『吉田松陰』『吉田桧陰と松下村塾』(共にミネルヴァ書房)。また海原徹著『高杉晋作』(ミネルヴァ書房)、一坂太郎著『松陰と晋作の志』(KKベストセラーズ)、池田諭者『高杉晋作久坂玄瑞』(大和書房)等を参照。山岡荘八の引用は『吉田松陰』(講談社)。(3・4・5・8・9・12=丸数字)

随筆人間世紀の光 162 尊き師弟の物語〔完〕

ブログ はればれさんからのコピーです。