2009年1月1日付 聖教新聞 池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った-1
2009年1月1日付 聖教新聞
池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った-1
日本正学館 1
昭和二十四年一月三日──ドラマは六十年前、恩師の会社に初めて出勤した日から始まった
池田青年の十年
総武線の水道橋駅で降り、東京・千代田区の神田に向かった。
有名な東京ドームを背にして、水道橋西通りを南に歩く。いま地図で見ると距離にして五百メートルほどか。
西神田三の八の一。ブルーに輝く窓ガラスが印象的な高層ビルで占められている。
ここに「日本正学館」の小さな看板を掲げた出版社があった。近くに日本橋川が流れている。
昭和二十四年(一九四九年)の寒い一月三日の月曜日だった。
池田大作青年は、恩師である戸田城聖第二代会長(当時・理事長)の経営する日本正学館へ初出勤した。
前日に二十一歳の誕生日を迎えたばかりである。この日の東京の天候は小雨時々晴れであった。
現在は日本橋川の上を覆うように、高速道路が走っている。高いビルも高速道路もなかった六十年前の正月。日本橋川は、冬空に舞う色とりどりの凧をながめていたはずである。
当時の池田青年を知る一人に評論家の塩田丸男がいる。
中国から復員した塩田は、縁あって「日本婦人新聞社」に勤める。その編集室が、実は日本正学館の三階にあったというのである。
塩田は取材班のインタビューに快く応じてくれた。
「三階というと聞こえはいいが、実際は屋根裏で物置に使っていたところにちょっと手を入れただけ。広さ? 広さなんてものではなく、"狭さ"と言ったほうがいい」
日本婦人新聞社の看板は一階の戸口のわきに小さくぶら下がっていた。いっしょに並んでもうーつ、達筆な文字で創価学会の看板が掲げられていたという。
「新聞記者はたいていズボラで朝も遅い。私がのそのそと出勤していくころには、一階の創価学会の部屋は大勢の人たちが活発に動きまわっていて、その間をくぐりぬけて、こそこそと三階の屋根裏へ上っていったものです」
西神田の旧学会本部。
二階までは、関係者の記憶から間取り図(5面)をほぼ正確に示せるが、その上に、さらに三階があったことは、あまり知られていない。
「創価学会が大家さんで、こちらは屋根裏の住人なんだから腰を低くしなければならないのに、新聞記者は図々しい連中ばかりで、私もあまり頭を下げなかったように思います」
そんななかで、大変印象に残っているのが、池田青年だった。いつも「おはようございます!」「仕事のほうはどうですか?」と、気さくに声をかけてくれた。
「大きな声で、明るい顔色で、元気いっぱいの目立つ青年でした。
まさか、こんなに偉くなられるとは!
その後、直接お目にかかる機会はありませんが、私のなかにある『池田大作』は今でも、あの元気な、明るい大作青年です!」
日本正学館は池田SGI会長の人生の軌跡を追ううえで、最初のキーポイントとなる場所である。
二十一歳から日本正学館で働きはじめ、三十歳で永訣するまで、ちょうど十年間、戸田会長に師事している。
これより十年早ければ、第二次世界大戦の戦雲が二人を裂き、十年遅ければ、戸田会長はすでにいない。不思議な巡り合わせの十年である。
二十一歳から三十歳。この十年こそ、池田会長の人間形成にとって決定的な歳月であったといってよい。
橋本忍のインタビュー
映画「人間革命」の続編を制作するにあたり、脚本を手けた橋本忍が原作者・池田会長に聞いている。「初めて日本正学館に出勤した日のことを教えてください」
以下は「橋本インタビユー」によるところの会長自身の述懐である。
一月三日は底冷えのする日だった。午前八時、弁当を手にして出社したが、仕事始めの前で、神田に人影は、まばらだった。
この日を選んだのは戸田会長に「来年からこい」と言われていたからで、ほかの理由はない。少し早いかと思ったが、ちょうど月曜日。新しいスタートに決めた。
事務所のガラス戸をたたいたが、だれもいない。あらかじめカギを渡されていたので中へ入った。
コンクリート打ちの玄関を入るとカウンターがあり、一階が事務所、二階の一部が編集室となっていた。奥の階段を三段ほど上がったところに中二階がある。
火の気もなく、足下から冷気が伝わる。掃除をして先輩社員を待つことにした。バケツの水で雑巾をしぼる。みっちり一時間かけ、机や窓をふいたが、だれも来ない。
どうなっているのか。この会社は大丈夫なのか。初出勤ながら心配した。
十時をすぎたころ、ガラッと音をたてて正面のガラス戸が開いた。
「おめでとうございます!」
顔をあげると、立っていたのは電報の配達人だった。
戸田先生あての電報を受け取った。急ぎの案件にちがいない。ご自宅まで持っていくことにした。
事務所の戸締まりをして、当時、港区の芝白金台町にあった戸田宅へ向かった。
玄関で用向きを伝えると、年配の女性が「ご苦労さま」と錠を開けてくれた......
短い回想だが、いくつかの興味深い点がある。
朝が早く、出社が早い。きれい好き。機転がきく。受け身で構えるのでなく、すぐさま行動に打って出る。
たった半日ほどのエピソードだが、池田会長の人となりを物語っている。
一方、新入社員を採用していながら「来年から来い」の一言ですませ、出勤日も定めなかった戸田会長......。
時代が時代だったとはいえ、いかにも豪放な人柄が浮かび上がってくる。
二人の師弟関係とは、つまりは、このような間柄だったとも思える。
つまり師が何かを決め細かく指示するのではなく、根本の大綱のみを示す。
むしろ弟子の側が細目を定め、行動し、すべてをグイグイと具体化していく。初出勤の日にして、すでに師弟の命運は決定づけられていたかのようである。
この時点での池田青年は、決して宗教、信仰というものに納得していたわけではなかった。
「日蓮」と聞くと、思い浮かぶ原風景がある。
団扇太鼓をドンドン打ち鳴らしながら、大声で題目を唱え、町中をねり歩く信徒の一団──。
少年時代に見た光景は、宗教への無知や盲信などを連想させた。
宗教というものにありがちな視野のせまさ、独善性。
仲間うちにしか通じない、閉ざされた言語感覚や、教祖を頂点にしたピラミッド形の息苦しい上下関係。
多くの宗教団体がおちいりやすい点である。
しかも、戦前の日本は国家神道を精神的な柱に立てて破局した。池田青年ならずとも、宗教は、こりごりであったろう。
入会後も、なんとか自らの運命から免れないものかと一年間ほど悩み、抗っている。
それは、小説『人間革命』第三巻「漣」の章で告白している。
夏に静岡で開かれた学会の講習会。まわりは騒がしく、どうも、とけ込めない。伝統的な儀式も、しつくりこない。ひとりギリシャの詩を口ずさみ眠りについた......。
後年の回想。
「宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった」
「宗教には反発しながらも、戸田城聖という人間的な魅力に対しては、どうすることもできなかった」
池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った-2に続く
(西神田の学会本部は日本小学館の2階にあった)
時代と背景
「私は、やがてルビコンを渡った」(池田大作著『私の履歴書』)。昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い、入会(同24日)するが、一緒に働きはじめるまでの葛藤を古代ローマの故事にたとえている。
翌23年秋、法華経講義を受講してまもなく、日本正学館入りを打診され「一も二もなく『お願いします』と即座に答えた」(同)。大みそか、蒲田工業会を円満退社。初出動は、その3日後のことだった。賽は投げられたのである。
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池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った-1
日本正学館 1
昭和二十四年一月三日──ドラマは六十年前、恩師の会社に初めて出勤した日から始まった
池田青年の十年
総武線の水道橋駅で降り、東京・千代田区の神田に向かった。
有名な東京ドームを背にして、水道橋西通りを南に歩く。いま地図で見ると距離にして五百メートルほどか。
西神田三の八の一。ブルーに輝く窓ガラスが印象的な高層ビルで占められている。
ここに「日本正学館」の小さな看板を掲げた出版社があった。近くに日本橋川が流れている。
昭和二十四年(一九四九年)の寒い一月三日の月曜日だった。
池田大作青年は、恩師である戸田城聖第二代会長(当時・理事長)の経営する日本正学館へ初出勤した。
前日に二十一歳の誕生日を迎えたばかりである。この日の東京の天候は小雨時々晴れであった。
現在は日本橋川の上を覆うように、高速道路が走っている。高いビルも高速道路もなかった六十年前の正月。日本橋川は、冬空に舞う色とりどりの凧をながめていたはずである。
当時の池田青年を知る一人に評論家の塩田丸男がいる。
中国から復員した塩田は、縁あって「日本婦人新聞社」に勤める。その編集室が、実は日本正学館の三階にあったというのである。
塩田は取材班のインタビューに快く応じてくれた。
「三階というと聞こえはいいが、実際は屋根裏で物置に使っていたところにちょっと手を入れただけ。広さ? 広さなんてものではなく、"狭さ"と言ったほうがいい」
日本婦人新聞社の看板は一階の戸口のわきに小さくぶら下がっていた。いっしょに並んでもうーつ、達筆な文字で創価学会の看板が掲げられていたという。
「新聞記者はたいていズボラで朝も遅い。私がのそのそと出勤していくころには、一階の創価学会の部屋は大勢の人たちが活発に動きまわっていて、その間をくぐりぬけて、こそこそと三階の屋根裏へ上っていったものです」
西神田の旧学会本部。
二階までは、関係者の記憶から間取り図(5面)をほぼ正確に示せるが、その上に、さらに三階があったことは、あまり知られていない。
「創価学会が大家さんで、こちらは屋根裏の住人なんだから腰を低くしなければならないのに、新聞記者は図々しい連中ばかりで、私もあまり頭を下げなかったように思います」
そんななかで、大変印象に残っているのが、池田青年だった。いつも「おはようございます!」「仕事のほうはどうですか?」と、気さくに声をかけてくれた。
「大きな声で、明るい顔色で、元気いっぱいの目立つ青年でした。
まさか、こんなに偉くなられるとは!
その後、直接お目にかかる機会はありませんが、私のなかにある『池田大作』は今でも、あの元気な、明るい大作青年です!」
日本正学館は池田SGI会長の人生の軌跡を追ううえで、最初のキーポイントとなる場所である。
二十一歳から日本正学館で働きはじめ、三十歳で永訣するまで、ちょうど十年間、戸田会長に師事している。
これより十年早ければ、第二次世界大戦の戦雲が二人を裂き、十年遅ければ、戸田会長はすでにいない。不思議な巡り合わせの十年である。
二十一歳から三十歳。この十年こそ、池田会長の人間形成にとって決定的な歳月であったといってよい。
橋本忍のインタビュー
映画「人間革命」の続編を制作するにあたり、脚本を手けた橋本忍が原作者・池田会長に聞いている。「初めて日本正学館に出勤した日のことを教えてください」
以下は「橋本インタビユー」によるところの会長自身の述懐である。
一月三日は底冷えのする日だった。午前八時、弁当を手にして出社したが、仕事始めの前で、神田に人影は、まばらだった。
この日を選んだのは戸田会長に「来年からこい」と言われていたからで、ほかの理由はない。少し早いかと思ったが、ちょうど月曜日。新しいスタートに決めた。
事務所のガラス戸をたたいたが、だれもいない。あらかじめカギを渡されていたので中へ入った。
コンクリート打ちの玄関を入るとカウンターがあり、一階が事務所、二階の一部が編集室となっていた。奥の階段を三段ほど上がったところに中二階がある。
火の気もなく、足下から冷気が伝わる。掃除をして先輩社員を待つことにした。バケツの水で雑巾をしぼる。みっちり一時間かけ、机や窓をふいたが、だれも来ない。
どうなっているのか。この会社は大丈夫なのか。初出勤ながら心配した。
十時をすぎたころ、ガラッと音をたてて正面のガラス戸が開いた。
「おめでとうございます!」
顔をあげると、立っていたのは電報の配達人だった。
戸田先生あての電報を受け取った。急ぎの案件にちがいない。ご自宅まで持っていくことにした。
事務所の戸締まりをして、当時、港区の芝白金台町にあった戸田宅へ向かった。
玄関で用向きを伝えると、年配の女性が「ご苦労さま」と錠を開けてくれた......
短い回想だが、いくつかの興味深い点がある。
朝が早く、出社が早い。きれい好き。機転がきく。受け身で構えるのでなく、すぐさま行動に打って出る。
たった半日ほどのエピソードだが、池田会長の人となりを物語っている。
一方、新入社員を採用していながら「来年から来い」の一言ですませ、出勤日も定めなかった戸田会長......。
時代が時代だったとはいえ、いかにも豪放な人柄が浮かび上がってくる。
二人の師弟関係とは、つまりは、このような間柄だったとも思える。
つまり師が何かを決め細かく指示するのではなく、根本の大綱のみを示す。
むしろ弟子の側が細目を定め、行動し、すべてをグイグイと具体化していく。初出勤の日にして、すでに師弟の命運は決定づけられていたかのようである。
この時点での池田青年は、決して宗教、信仰というものに納得していたわけではなかった。
「日蓮」と聞くと、思い浮かぶ原風景がある。
団扇太鼓をドンドン打ち鳴らしながら、大声で題目を唱え、町中をねり歩く信徒の一団──。
少年時代に見た光景は、宗教への無知や盲信などを連想させた。
宗教というものにありがちな視野のせまさ、独善性。
仲間うちにしか通じない、閉ざされた言語感覚や、教祖を頂点にしたピラミッド形の息苦しい上下関係。
多くの宗教団体がおちいりやすい点である。
しかも、戦前の日本は国家神道を精神的な柱に立てて破局した。池田青年ならずとも、宗教は、こりごりであったろう。
入会後も、なんとか自らの運命から免れないものかと一年間ほど悩み、抗っている。
それは、小説『人間革命』第三巻「漣」の章で告白している。
夏に静岡で開かれた学会の講習会。まわりは騒がしく、どうも、とけ込めない。伝統的な儀式も、しつくりこない。ひとりギリシャの詩を口ずさみ眠りについた......。
後年の回想。
「宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった」
「宗教には反発しながらも、戸田城聖という人間的な魅力に対しては、どうすることもできなかった」
池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った-2に続く
(西神田の学会本部は日本小学館の2階にあった)
時代と背景
「私は、やがてルビコンを渡った」(池田大作著『私の履歴書』)。昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い、入会(同24日)するが、一緒に働きはじめるまでの葛藤を古代ローマの故事にたとえている。
翌23年秋、法華経講義を受講してまもなく、日本正学館入りを打診され「一も二もなく『お願いします』と即座に答えた」(同)。大みそか、蒲田工業会を円満退社。初出動は、その3日後のことだった。賽は投げられたのである。
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