御書 十大部 五大部ー概略(下)

法華取要抄:御書P331~338

文永一一年(一二七四年)五月二四日、日蓮大聖人が五三歳の時、身延から富木常忍に与えられた書。法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経末法弘通の本尊であることを明かされている。日蓮正宗第二六世日寛上人の取要抄文段によると、題号のうち、法華の二字は釈迦一代の所説中、爾前の教を捨てて法華経のみを用いることを示し、取要の二字は広略要の法華経の中、広略の法華経を捨てて肝要のみを取ることを示す。内容は大きく三段に分けることができる。最初に、一代聖教を教法・教主の人法両面から勝劣を論じて、法華経が最勝の経であることを明かにしている。次に、法華経、特に如来寿量品第十六は釈迦滅後末法日蓮大聖人のために説かれたものであるとし、法華経の眼目は末法にあることを示されている。次に、末法流布の大法は三大秘法の南無妙法蓮華経であることを明かされ、広略を捨てて要の法華経である妙法蓮華経の五字を取る所以を示されている。また当時の天変地夭の現証をあげ、これらは正法の行者である大聖人を謗じたためであり、末法広宣流布の先相であると説かれている

御書要文

末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有つて得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり

要文通解

末法においては大乗や小乗も、権教も実経も、顕教密教も、一切の仏法はその教えのみが伝えられているが、その教え通りに修行しても一人として成仏することはない。世界中の多くの人々が正法を信じることの出来ない謗法の人となってしまった。従って、正法を信じない者に対しては、強いて妙法蓮華経の五字を聞かしめて仏種を植え付けることが肝要である。それはあたかも上慢の僧が不軽菩薩に迫害を加えて一度地獄に墜ち、その後法華経を聞いた縁によって成仏できたようなもので、法華経の不軽品に説かれている如くである。我が門弟は素直に正法を信じたから順縁であり、日本国の多くの人々は信ぜず誹謗するから逆縁である。


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四信五品抄:御書P338~343

日蓮大聖人十大部一つ。別名を「末代法華行者位並用心事」という。建治三年(一二七七年)四月一〇日、日蓮大聖人五六歳の時、身延で述作。下総国(千葉県)の富木五郎左衛門尉常忍に与えられたもの。末法法華経の行者の修行の姿を述べられている。まず法華経分別功徳品第十七に説く四信五品について述べ、一念信解・初随喜が末法法華経の行者の位であり、その修行は南無妙法蓮華経と唱えることであり、成仏の直道となることを明かされている。そして一分の解がなくとも、ただ題目を唱えることの功徳力を示し、その仏法上の位を明かされている。

御書要文

妙楽の云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有る者は福十号に過ぐ」

要文通解

妙法を信じる者は福十号に過ぎる


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下山御消息:御書P343~364

弟子因幡房日永に代わり、甲斐国山梨県) 下山の地頭・下山兵庫五郎光基に送られた陳状。日永は念仏の行者であったが、 日興上人にしたがって大聖人に帰依し、法華経の行者となった。その信仰を父親 (一説には主君) の下山殿が妨害したため、 大聖人が日永に代わって日永の署名によってこの書を書き、光基を諌暁した。のち光基も大聖人に帰依したが、 大聖人滅後、民部日向にしたがって日永と共に日興上人に背いた。本抄では、法華経信仰に至った経緯を述べ、 大聖人の仏法の正しさを客観的に論じている。また当時の宗教界の現状を批判し、特に律の持斎者の堕落や、 念仏・真言・禅等の誤りを指摘、更に天台宗密教化するに及んで一国謗法となり、国が乱れたことを述べている。 そして、大聖人が法華経信仰の立場から僧俗の謗法罪を明らかにし、三度の諌暁を行なったがいれられず、 ついに身延の山に隠遁した顛末を述べ、念仏無間地獄の義を強調している。 最後にこの陳状を提出した理由を述べ、念仏を捨て大聖人の仏法を信じ、親や主君を正法に導くことを説き結んでいる。

御書要文

今度・法華経の大怨敵を見て経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く散散に責るならば定めて万人もいかり国主も讒言を収て流罪し頸にも及ばんずらん(中略)信心をも増長せんと退転なくはげみし程に案にたがはず去る文永八年九月十二日に都て一分の科も なくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ余又兼て此の事を推せし故に弟子に向つて云く我が願既に遂ぬ悦び身に余れり人身は受けがたくして破れやすし、過去遠遠劫より由なき事には失いしかども法華経のために命をすてたる事はなし

要文通解

このたび法華経の大怨敵を見て、経文に説かれているように、父母や師匠を朝敵・宿世の敵のようにさんざんに責めれば、まちがいなく多くの人々が怒り、国主も讒言により流罪し、首を斬られることもあるだろう。(中略)信心を強盛にしようと、退転せずに一生懸命に励んでいたところ、案の定、文永八年九月十二日、一分の咎もないのに佐渡流罪となった。対外的には流罪というかもしれないが、実際、内部では首を斬ると決めていたのである。私はかねてからこのことを推察していたが故に、弟子に向かって言おう。我が願いがとうとう叶った。この喜びは身に余るものだ。人身は受けがたく破れやすい。過去遠遠劫より、つまらないことで命を失う人はいても、法華経のために命を捨てた人はいない


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本尊問答抄御書:P365~374

弘安元年九月、身延に於いてご執筆。
浄顕房日仲に与えられた御抄。
問答形式により、本尊の義を明かし、通じては諸宗の本尊、別しては真言宗の本尊を厳しく破折されている。
すなわち三大師等の謗法をあげ、承久の乱の現証をもって、真言亡国の旨を断定され、最後に日蓮大聖人の妙法五字の御本尊の未曾有なるを説き、法華経の題目(三大秘法)こそ末法弘通の御本尊であると述べられている。


御書要文

末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし

要文通解

末法の悪い時代に生きる凡夫は、いったい、何物をもって本尊と定めるべきでしょうか?答えていうには、法華経の題目(南無妙法蓮華経)をもって本尊とすべきです。