【第11回】 水滸会 4
宗門は組織が老いている
学会が伸びたのは組織が若く新しいからだ
全体観に立て
昭和二十九年(一九五四年)二月九日の水滸会。会場は信濃町の学会本部である。前年の十一月に西神田から本部を移している。
前日の八日、戸田城聖会長は学会本部で御書講義を終え、会長室で倒れた。一時間あまり発作が続き、畳がぬれるほど汗を流した。
「大、大はいないか、大作は......」
熱にうなされながら池田大作部隊長の名を呼び続けた。
だが昨日の発作には触れず、何事もなかったように会合を始めた。
水滸会での指導は、しだいに遺言の様相を帯びていく。
この日は『水滸伝』第九巻を終了する予定だった。
最初の議題は「遼の国の申し出に対する呉用と宋江の相違」だった。
すでに梁山泊の軍勢は、宋の国の正規軍に編入されていた。北方異民族の遼を討つため遠征してきたが、敵の遼から使いが来る。
お前たち、こっちへ寝返らないか。もし我が国につくなら重く用いるぞ。
宋江は、腐敗しているとはいえ、宋の朝廷のもとで戦う考えだった。
一方、参謀の呉用は、堕落した宋についても仕方がない、遼と結んだほうがよいと考えた。
「それでは意見交換に入ります」
司会に向かって、いっせいに手が挙がった。
「学会の組織にあてはめてみれば、宋江がリーダー、軍師の呉用は作戦担当にあたります。意見が違うこともあるでしょう」
「宋江の立場は忠義ひとつです。むしろ部下たちの心が揺れるのを心配しているのだと思います」
あとは先細りで、似たような意見ばかりになった。池田部隊長がバッと軌道修正をうながす。「違った立場から答えなさい」。しかし、相変わらず話の幅が広がらない。
仁丹をかみながら青年の議論を聞いていた戸田会長が短く言った。
「諸君が宋江なら、どうする。呉用につくのか、つかないのか」
池田部隊長が大きな声で言った。
「呉用につく者は?」一人も手があがらない。
「では、つかない者は?」
さっと全員の手があがった。宋の国のもとで戦うという判断である。
会場の隅で東京大学の学生が当時の戦略状況を分析し始めたが、戸田会長は、それをさえぎった。
「作戦など聞きたくない。どちらを取るかである」
この遼からの申し出は、巧みな分断工作でもある。
梁山泊の軍勢と宋の国を引き裂こうとしている。
結局、この場では全員が宋江につき、宋の国を立て直すことになった。組織防衛というテーマの格好な材料でもあった。
しかし、なぜ宋江支持なのか。それを、なかなか自分の言葉で言えず、もどかしい。
戸田会長は、ぐるっと見回した。
「宋江には全体観がある。それに比べ、呉用は団体観にしか立っていない」
君らは一流から学ベ
全体観と団体観──。高い視点から全体を見渡すべきであり、自分の団体だけに固執してはいけない。
「水滸会のことだけを考え、青年部のことを考えないようでは、それはいけない。青年部のみを考え、学会を考えないなら、これもだめだ」
さらに戸田会長は続けた。
「それだけではない。学会のことのみを考え、社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。大きく考えることが必要だ」
水滸伝のケースにあてはめてみれば、梁山泊の生き残りだけを考えるのでなく、どうすれば宋の国がよくなるのかを念頭に行動しろというのである。
議論が一段落したころ、池田部隊長が身を乗り出した。
「今までの歴史上でも、同じようなことがあったと思います。どのような顕著な例があったでしょうか」
師はタバコに火をつけながら話をつづけた。
「いろいろあったと思う。戦略上では敵方を裂くのが一番だろうな」
ここぞという急所では、いつも池田部隊長の質問を起点に話を展開する。
「このようなことは、大につけ小につけ、いろいろあっただろう。作戦のひとつだよ。敵の力を二分、三分して弱くする。次に大切なのは、降参した者を差別しないで重用することだな」
皆、しきりにうなずく。
「宋の国で政治が乱れたのも組織が古くなったからだ。日本の軍隊が乱れたのも組織の旧弊化にある。宗門が崩れたのも組織が老いたからで、学会が発展してきたのは組織年齢が若いからだ」
そこまで言うと、少しずり落ちた眼鏡を、右手で押し上げた。
学会も組織が大きくなり、幹部が偉そうにしていることを厳しくいましめた。
「もし、そういう威張った幹部がいたら知らせてくれ」
ハイツ。一同が声をそろえ、返事した。
すかさず池田部隊長がたずねた。
「先生、組織が古くなった時には、どうしたらよいでしょうか」
左側に座っている池田部隊長に顔を向けながら、遠くを見つめるように語った。
「何らかの形で刷新し、時期が来たら、すぐに組織を作るのがいいだろう」
常に新しい創価学会でなければならない。どこまでも組織は若く、新しく。
『水滸伝』が終わると、『モンテ・クリスト伯』『風霜』『風と波と』『九十三年』『ロビンソン・クルーソー』『隊長ブーリバ』。さらに第二期では『三国志』、第三期では『新書太閤記』がテキストになった。
それぞれの教材も池田部隊長が選んだ。
ある時、会員二人に教材の案を考えさせた。任されたほうは大変である。喫茶店や、とんかつ屋で顔をつきあわせて「おい、どうする」と相談した。神田の書店街を回り、ようやく『風と波と』を見つけた。
村松梢風という当時はやりの伝記作家の小説だった。
主人公は明治時代に「二六新報」という新聞を創刊した秋山定輔。のちに政治家になった。
池田部隊長は「よし、それにしよう」と採用した。後輩が一生懸命に考えた案は却下しなかった。
ところが水滸会の日、戸田会長はものすごい剣幕で怒り出した。
「誰が選んだ!」
選んだ二人は青くなった。その時。
「わたくしです。申し訳ございません」
池田部隊長が頭をさげた。
水滸会員の多くは、本に描かれた秋山の活躍をたたえた。だが戸田会長は「秋山は三流人物だ」と一刀両断した。秋山定輔は革命児で情熱家である。しかし、人物としては策士で三流人物だ、と。
一流の人物とは天下国家を動かす人物である。君らは一流の人物に触れよ。一流から学ぶのだ。これが戸田会長の教えだった。
池田部隊長は叱責を一身にかぶった。
この時だけではない。すべての責任を取り、いつも叱咤を受ける。それゆえ「防波堤」といわれた。
本を選んだ一人の回想。
「一言も我々のことを言わずに守ってもらった。責めるような言葉もない。戸田先生も、それを承知の上で叱られたのだと思います」
(続く)
時代と背景
昭和28年の学会は、まさに若々しく組織が伸びた。約「2万世帯の陣容から、ー気に7万世帯を突破二。翌29年には16万世帯へ倍増以上の発展をみる。池田部隊長の拡大戦がこれをリードした。
一方で、学会は"大石寺と聞けば誰も塩も貸さない"と揶揄された宗門を外護するが、供養をむさぼる堕落僧が続出。戸田会長は聖教新聞の「寸鉄」で「化物坊主」と痛烈に批判した。
学会が伸びたのは組織が若く新しいからだ
全体観に立て
昭和二十九年(一九五四年)二月九日の水滸会。会場は信濃町の学会本部である。前年の十一月に西神田から本部を移している。
前日の八日、戸田城聖会長は学会本部で御書講義を終え、会長室で倒れた。一時間あまり発作が続き、畳がぬれるほど汗を流した。
「大、大はいないか、大作は......」
熱にうなされながら池田大作部隊長の名を呼び続けた。
だが昨日の発作には触れず、何事もなかったように会合を始めた。
水滸会での指導は、しだいに遺言の様相を帯びていく。
この日は『水滸伝』第九巻を終了する予定だった。
最初の議題は「遼の国の申し出に対する呉用と宋江の相違」だった。
すでに梁山泊の軍勢は、宋の国の正規軍に編入されていた。北方異民族の遼を討つため遠征してきたが、敵の遼から使いが来る。
お前たち、こっちへ寝返らないか。もし我が国につくなら重く用いるぞ。
宋江は、腐敗しているとはいえ、宋の朝廷のもとで戦う考えだった。
一方、参謀の呉用は、堕落した宋についても仕方がない、遼と結んだほうがよいと考えた。
「それでは意見交換に入ります」
司会に向かって、いっせいに手が挙がった。
「学会の組織にあてはめてみれば、宋江がリーダー、軍師の呉用は作戦担当にあたります。意見が違うこともあるでしょう」
「宋江の立場は忠義ひとつです。むしろ部下たちの心が揺れるのを心配しているのだと思います」
あとは先細りで、似たような意見ばかりになった。池田部隊長がバッと軌道修正をうながす。「違った立場から答えなさい」。しかし、相変わらず話の幅が広がらない。
仁丹をかみながら青年の議論を聞いていた戸田会長が短く言った。
「諸君が宋江なら、どうする。呉用につくのか、つかないのか」
池田部隊長が大きな声で言った。
「呉用につく者は?」一人も手があがらない。
「では、つかない者は?」
さっと全員の手があがった。宋の国のもとで戦うという判断である。
会場の隅で東京大学の学生が当時の戦略状況を分析し始めたが、戸田会長は、それをさえぎった。
「作戦など聞きたくない。どちらを取るかである」
この遼からの申し出は、巧みな分断工作でもある。
梁山泊の軍勢と宋の国を引き裂こうとしている。
結局、この場では全員が宋江につき、宋の国を立て直すことになった。組織防衛というテーマの格好な材料でもあった。
しかし、なぜ宋江支持なのか。それを、なかなか自分の言葉で言えず、もどかしい。
戸田会長は、ぐるっと見回した。
「宋江には全体観がある。それに比べ、呉用は団体観にしか立っていない」
君らは一流から学ベ
全体観と団体観──。高い視点から全体を見渡すべきであり、自分の団体だけに固執してはいけない。
「水滸会のことだけを考え、青年部のことを考えないようでは、それはいけない。青年部のみを考え、学会を考えないなら、これもだめだ」
さらに戸田会長は続けた。
「それだけではない。学会のことのみを考え、社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。大きく考えることが必要だ」
水滸伝のケースにあてはめてみれば、梁山泊の生き残りだけを考えるのでなく、どうすれば宋の国がよくなるのかを念頭に行動しろというのである。
議論が一段落したころ、池田部隊長が身を乗り出した。
「今までの歴史上でも、同じようなことがあったと思います。どのような顕著な例があったでしょうか」
師はタバコに火をつけながら話をつづけた。
「いろいろあったと思う。戦略上では敵方を裂くのが一番だろうな」
ここぞという急所では、いつも池田部隊長の質問を起点に話を展開する。
「このようなことは、大につけ小につけ、いろいろあっただろう。作戦のひとつだよ。敵の力を二分、三分して弱くする。次に大切なのは、降参した者を差別しないで重用することだな」
皆、しきりにうなずく。
「宋の国で政治が乱れたのも組織が古くなったからだ。日本の軍隊が乱れたのも組織の旧弊化にある。宗門が崩れたのも組織が老いたからで、学会が発展してきたのは組織年齢が若いからだ」
そこまで言うと、少しずり落ちた眼鏡を、右手で押し上げた。
学会も組織が大きくなり、幹部が偉そうにしていることを厳しくいましめた。
「もし、そういう威張った幹部がいたら知らせてくれ」
ハイツ。一同が声をそろえ、返事した。
すかさず池田部隊長がたずねた。
「先生、組織が古くなった時には、どうしたらよいでしょうか」
左側に座っている池田部隊長に顔を向けながら、遠くを見つめるように語った。
「何らかの形で刷新し、時期が来たら、すぐに組織を作るのがいいだろう」
常に新しい創価学会でなければならない。どこまでも組織は若く、新しく。
『水滸伝』が終わると、『モンテ・クリスト伯』『風霜』『風と波と』『九十三年』『ロビンソン・クルーソー』『隊長ブーリバ』。さらに第二期では『三国志』、第三期では『新書太閤記』がテキストになった。
それぞれの教材も池田部隊長が選んだ。
ある時、会員二人に教材の案を考えさせた。任されたほうは大変である。喫茶店や、とんかつ屋で顔をつきあわせて「おい、どうする」と相談した。神田の書店街を回り、ようやく『風と波と』を見つけた。
村松梢風という当時はやりの伝記作家の小説だった。
主人公は明治時代に「二六新報」という新聞を創刊した秋山定輔。のちに政治家になった。
池田部隊長は「よし、それにしよう」と採用した。後輩が一生懸命に考えた案は却下しなかった。
ところが水滸会の日、戸田会長はものすごい剣幕で怒り出した。
「誰が選んだ!」
選んだ二人は青くなった。その時。
「わたくしです。申し訳ございません」
池田部隊長が頭をさげた。
水滸会員の多くは、本に描かれた秋山の活躍をたたえた。だが戸田会長は「秋山は三流人物だ」と一刀両断した。秋山定輔は革命児で情熱家である。しかし、人物としては策士で三流人物だ、と。
一流の人物とは天下国家を動かす人物である。君らは一流の人物に触れよ。一流から学ぶのだ。これが戸田会長の教えだった。
池田部隊長は叱責を一身にかぶった。
この時だけではない。すべての責任を取り、いつも叱咤を受ける。それゆえ「防波堤」といわれた。
本を選んだ一人の回想。
「一言も我々のことを言わずに守ってもらった。責めるような言葉もない。戸田先生も、それを承知の上で叱られたのだと思います」
(続く)
時代と背景
昭和28年の学会は、まさに若々しく組織が伸びた。約「2万世帯の陣容から、ー気に7万世帯を突破二。翌29年には16万世帯へ倍増以上の発展をみる。池田部隊長の拡大戦がこれをリードした。
一方で、学会は"大石寺と聞けば誰も塩も貸さない"と揶揄された宗門を外護するが、供養をむさぼる堕落僧が続出。戸田会長は聖教新聞の「寸鉄」で「化物坊主」と痛烈に批判した。