【第10回】 水滸会 3 2009-1-20

「今に世界の指導者がやってくるぞ」

周恩来ネルーと語り合う時代を恩師は見つめた



 忙しくすれば人材が出る



 水滸会で、吉田松陰とその門下を描いた『風霜』がテキストになった。庶民感情に通じた著者・尾崎土郎の作風を戸田城聖会長は讃えた。

 「日本の文学者のなかでは、ひとつの思想を、ちゃんと持っているという点で尊敬できる」

 松陰門下の高杉晋作を、こよなく愛した。三味線をひきながら奇兵隊を指揮した。

 「面白いじゃないか。こんなふうに悠々と指揮した晋作は、よほどの大人物だ。我々の人生も、晋作のように悠々といきたいものだ。

 もし歴史上の人物に会えるものなら、ぜひ高杉晋作には会ってみたいな」と笑う。

 「先生、でも明治維新の志士たちは、生活が、めちゃめちゃでした」

 きちょうめんな青年から、こんな声があがった。

 「たしかに、そうだ」

 会長は認めた。

 「革命だから、やむをえない面もあるが、要するに彼らは遠視眼であった。国家のことのみを考え、自分のことを考えていない。これでは駄目だ。我々は正視眼である。国家のためであり、また自分のためでなければならない」

 晋作に会ってみたい──戸田門下から高杉晋作のような傑物が欲しいというシグナルでもあったろう。

 維新の志士を出した長州藩山口県)は、明治政府でも実権を握り、その後、保守政党の牙城となる。

 学会の布教も後れを取っていたが、後に池田大作部隊長が戸田会長のもとで「山口作戦」を立案する。晋作のように自在に転戦し、組織を躍進させるのは、昭和三十一年(一九五六年)秋から翌年にかけてのことである。



 戦後、どの会社でも雨後の筍のように労働組合が結成された。日本国憲法によって労働基本権が認められ、大横模なストライキが世間を騒がせていた。

 「ストライキの話し合いは、全くへたくそだ。話し合いのこつは、刀を持って、抜くぞ、抜くぞという気配を見せながら交渉するのだ」

 組合活動に身を挺していた青年もいたが、まったくその通りだと手を打った。

 戸田会長は会社を経営し、多くの若者を雇ってきた。その経験から青年像も語った。

 「人の信用を得る根本は約束を守ることだ。何を犠牲にしても、絶対に約束をがっちりと守ることにより、借用が得られる。これは青年の絶対の社交術である。できないことは、はっきりできないと断る。引き受けたら、絶対にやる。これが信用の根本であり、金はかからない」

 金のかからない方法を知って、彼らは大いに喜んだのである。

 誰よりも人生の浮沈を味わってきた師の、ふとした一言には、千鈎の重みがあった。

 「自分自身を、じつと見つめなければ宿命の打開はできない。指導に際しても、宿習に悩む自分の姿をそのまま見せてやればよい。決して偉そうな顔をしてはいけない」

 人材育成についても極めて現実的な持論があった。

 「人材を輩出させるためには、忙しくさせるのだ。そうすれば組織が若返る。その中で人材が養成されるのだ」



 戦後、アメリカ文化の流入とともに、キリスト教が布教した。

 「東洋の広宣流布といっても、その根本は一対一の個人折伏と座談会以外にはない。伝道のために牧師を派遣したり、慈善事業をやったり、職業化している宗派もある。

 しかし学会は、どこまでも座談会を中心にした折伏が原則である」



 エリート主義の打破



 戸田会長の話は、まさに縦横無尽だった。

 新聞は一紙にかぎらず、何紙かを情報源にしていたようだが、極度な近視である。大きな見出しは読めるが、記事は判読しづらい。

 あまりラジオニュースもかけず、そばの者に、よく古典や歴史小説を朗読させていた。それでいて、ずばりと現代社会の事象の本質を突く。

 朝鮮戦争(昭和二十五年~二十八年)の報道でも、南北の対立を後ろで操る米国、ソ連の動向を追った記事は多かった。

 しかし、会長は「彼らのなかには(中略)『お前はどっちの味方だ』と聞かれて、驚いた顔をして『ごはんの味方で、家のある方へつきます』と、平気で答える者がなかろうか」と「大白蓮華」の論文に書いている。

 政治体制の優劣よりも、民衆を幸福にできる政治であるか否かを問いかけた。



 さらに水滸会で、今に世界の指導者がくるぞ、と将来を思い描く。実際家らしく、具体的な建物の間取りまでうれしそうに語る。

 「一階は下駄箱をたくさん置く。エレベーターもつくる。三階は広間にする。

 四階は外国人を招く。

 五階には歴代の会長の写真を飾る。すばらしい日本間もつくるんだぞ。

 せっかく外国の首相を呼んでも、座らせるところがなくては困るからな。

 そうだな、毛沢東周恩来、ネル一首相だの。マッカーサーは呼んでやろうよ」

 青年たちは酔いしれたように聞き入っている。ひとり池田部隊長だけが、近い将来の懸案として胸に刻んだ。

 今日、学会には大規模な収容人数の会館が整ったが、その原型もここにある。

 こうした施設を実際に建て、世界からの賓客を迎えるのは池田会長の時代である。

 師が実名をあげた中国の周恩来とも会い、ネル一家の後継者とも友情を結んだ。



 水滸会の存在は当初、一般会員には伝えられなかった。

 昭和二十九年一月一日付の聖教新聞に、初めて紹介されている。水滸会は前年の七月に新出発したので、半年近く伏せられていた。

 「男子青年部員にとって最大の名誉は水滸会員となる事だ」「先生の広布への構想を一言も聞き逃すまいと真剣そのもの」

 そして最後は、世界を夢見させる革命児の集いこそ水滸会と結ばれている。

 青年たちは色めき立った。水滸会は、一気にあこがれの的となった。

 戸田会長は推移を、じつと見守っていた。ある時、こんな話をしている。

 「本部にシロという犬がいる。よく、わしのひざに上ってくる。おっぽり出すと、また上ってくる。また、おっぽり出すと、今度は鼻にかみついてくる。

 わしのところへ来い。水新会員とは会う。いつでも会長室に入ってきてよい。来るのはお前たちの勝手だ。会いたくないと断るのも、わしの勝手だ。断られて会いに来るのも、またお前たちの勝手だ」

 水滸会員を愛犬シロにたとえるのも戸田会長らしいが、ストレートな愛情が伝わってくる。

 会いたければ来い。

 これが戸田会長のスタンスだった。自然体である。妙に構え、特別に選んだような「エリート主義」は微塵も感じられない。

 もし特別意識が水滸会にあれば、勘違いも、はなはだしい。またしても水滸会を中止にせざるをえない。

 同じ危惧を抱いていたのが池田部隊長だった。

 増長、傲慢、思い上がりに厳しい。時に周囲からは過剰と見えるほど厳しかった。

 ある時、誰かが戸田会長に聞いた。

 「先生、この中から大臣か、国会議員が出るんでしょうか」

 会長は遠くを見つめるように語った。

 「それは出るさ。政治家も出る。弁護士も出る。裁判官も出る。学者もいるだろう」

 まわりを見ても、そんなやつはいない。きっと将来、水滸会に、そういう人物が入ってくるのだろうと、参加者は勝手に納得した。

 その一方で、俺がなるに違いない、と思い上がっている者もいた。

 『水滸伝』の暴れん坊・黒旋風李逵に話題が及んだ折。

 「今で言えば誰だ」

 青年の顔を見回した。皆が押し黙った。

 「お前だな」

 指されたのは後に議員になる男だった。

 相撲も強い。足も速い。ロもうまい。才におぼれるタイプである。

 別の機会にも見栄っ張りな心根を切られている。しかし気づかない。

 「そうかなあ、おれ、そうかなあ。そんなこと言われたら、いやんなっちゃうな」

 おどけていたが、やがて退転していく。

        (続く)

時代と背景

 戸田会長はアジアの民衆の幸福を願っていたが、ネルーのもとで独立したインドも、毛沢東周恩来が建国した中国も、まだ貧困にあえいでいた。朝鮮半島は動乱の舞台になった。水滸会が再出発した昭和28年7月、朝鮮戦争の休戦協定が調印された。朝鮮特需は日本経済を救った。

 昭和33年完成の東京タワーも一部、戦争で使われた戦車を解体した鉄材が原料になる。