【第9回】 水滸会 2 2009-1-17

戸田思想の源流



 新たに発見された水滸会の資料。調べるにつれて、抱いていた概念が崩れていった。

 戸田城聖会長の言葉には、創価学会の会内にしか通じない、いわば内側を向いたものなどはなかった。

 まとめられた資料のインデックスを見ても、政治や経済に関するものが並んでいる。

 政治でいえば、国家機構、外交、教育行政。経済なら、経済政策、経済人。

 学会の目的である広宣流布を論じた個所もあるが、日本民族論や革命思想、戦争、指導者、処世など、外に話を開いた項目が目についた。

 要するに、天下国家を論じる話が多い。

 いかに実学を重んじたかもうかがえる。観念論などない。仏法哲理に裏づけられた社会論、現実変革論である。





 資料を前にすると、ふたつのことが浮かぶ。

 第一に、当時の日本の社会状況である。

 占領下にあった日本は、昭和二十六年(一九五一年)九月八日、サンフランシスコ講和条約に調印。

 翌二十七年四月に発効して、日本の独立が回復された。まだ主権国家として歩みはじめたばかりだった。

 新しい社会の創生期である。あらゆる団体や組織が、我が地盤、陣地、版図を広げるため、いっせいにスタートダッシュした。

 そんな時代背景だからこそ社会の青写真を示したのではないか。国家観。世界観。大局的な視点を与えている。

 それこそ、戦争で一切の価値観が崩れ、精神的に渇いていた青年世代が求めていたものでもある。

 第二に、ここには戸田思想の源流があり、そのすべては第三代の池田大作会長に引き継がれたことである。

 池田会長の人生には、社会運動家としての側面が強いことを、よく世界の識者が指摘している。その遠因は、どこにあったのか。答えを見つけたような思いがした。

 公明党の創立。

 創価一貫教育の完成。

 民主音楽協会東京富士美術館を両輪にした文化事業。

 平和運動にしても戸田記念国際平和研究所を創立するなど、常に社会に開いた運動を起こしていく。

 いわゆる経営手腕、事業家としての力量がなければ、これほどの運動を牽引することはできない。

 水滸会資料に、その豊かな種子を垣間見るのである。

 水滸会には、前史がある。

 当初、三十八人の陣容で昭和二十七年十二月にスタート。発刊まもない佐藤春夫の『新譯 水滸傳』をテキストに戸田会長は毎月二回ほど、男子部の代表を訓練した。

 格調高く、臨場感あふれる文体だった。

 メンバーは青年部長、男子部長、当時の四部隊(男子部の部組織)の代表で構成され、池田青年の役職は班長だった。



 公明選挙をやれ



 しかし回を重ねるごとに、惰性がしのびよる。飛びこみの参加者までいた。

 その象徴が一人の中国帰りの学生だった。調子に乗って中国酒の作り方などを、えんえんと話したことから、戸田会長は激怒した。

 「こんな腐ったところにいても、どうしようもない。私は帰る」

 立ち上がり、ぷいっと部屋を出ていった。

 首脳は、おろおろするばかりだった。

 そこで指導力を発揮したのが池田青年だった。

 人心を一新するとともに、三つの誓いを起草して、戸田会長に水滸会の再開を願い出た。

 宗教革命に生きる。

 師の精神を受け継ぐ。

 仲間を表切らない。

 この三点を骨子にした「水滸の誓」である。

 戸田会長も諒とし、四十三人が誓いに署名、拇印した。昭和二十八年(一九五三年)七月二十一日、再生なった水滸会が発足した。



 再出発で明確に変わったのは、指導体制の確立である。

 人選、教材の選定、日程、討議内容など、運営に関するすべてが池田青年を中心に進む。青年部長、男子部長は同席するものの、いわゆるオブザーバーで、これといった権限はない。

 (池田青年は昭和二十八年一月に男子第一部隊の部隊長に就任したため、この章では池田部隊長と表記する)

 戸田会長は水滸会を一時的に中断させた段階で、すでに新しい体制への切り替えを企図していたのかもしれない。

 新生・水滸会での戸田語録は、そう確信させるほど精彩を帯びて浮かび上がる。

 大半の会員は夢物語のように聞いていた。それも当然と思えるような壮大な構想なのである。

 だが、それは、池田部隊長によって、後に次々と実現されていく。まず、その事実に驚かされる。

 水滸会といっても、満足に学問をしてきたメンバーは少ない。顔ぶれを見れば、どこにでもいる平凡な若者ばかりである。

 油まみれになって働く修理工もいた。小学校しか出ていない者もいた。小説を読んで筋を理解するにも、ひと苦労である。

 戦後の教育制度も軌道に乗り始めたばかりである。戦前は兵隊の位で人間に序列があったが、戦後は学歴や会社組織のなかで新しい格差が生まれようとしていた。

 戸田会長の結論は明確だった。

 「学校の優等生が、かならずしも社会の優等生とはかぎらない。日本の学校は全科目で高得点を取らせる教育だ。

 しかし、社会に出てからは平均点よりも、一つでも九〇点があったほうがよい。一芸に秀でることだ」



 政界も混迷していた。

 昭和二十三年(一九四八年)には昭和電工事件があった。復興金融金庫から融資を受けるため、化学工業会社の昭和電工が、政府高官に金をばらまいたのである。

 「日本の昭電事件なども、賄賂がもとである。政治が腐っていった。選挙なども、『三当二落』なんて言っているが、三千万円使えば当選する。二千万円では落ちるということだそうだ」

 「その選挙に使った三千万円は、当選してから、どこかで生み出さなければならない。そこにまた汚職問題が起こってくる。学会は、そんなものを一銭も使わないで、公明選挙をやるのだ」

 日本の政治の悪弊を痛烈に批判した。

 この政治風土を打破したのも池田部隊長である。

 次章でくわしく述べるが、昭和三十一年(一九五六年)の参院選で大阪地方区の候補者を手弁当で当選させ、世間をアッと言わせた。

 それには理由がある。

 選挙といえば、今日からは想像もっかないほど、金がかかっていた。金がらみ、利権がらみ、縁故がらみでなければ、まともに動かない。選挙事務所に行けば、飯が出され、酒が出される。その握り飯の中には、札がねじ込まれている……。

 世の中が考える選挙運動とは、およそ、そのような実態だったからである。

        (続く)

時代と背景

 水滸会の発足に先立つ昭和27年10月21日。 戸田会長は女子部の人材グループ「華陽会」を結成。『二都物語』『三国志』などをテキストにした。

 この年の5月3日、恩師は会長就任から1周年となる日を選んで、池田青年と香峯子夫人の結婚式に出席。夫人の前途には想像を絶する苦難が予想されたが「彼女は『結構です』と、微笑みながら答えてくれた」(池田大作著『私の履歴書』)