第34回 「SGIの日」記念提言  上・中・下 2009年1月26日

第34回 「SGIの日」記念提言  上・下 2009年1月26日

◇「人道的競争へ 新たな潮流」(上)  2009-1-26
第34回「SGIの日」記念提言

現代文明の混迷広げる「抽象化の精神」の罠から脱し-
試錬に立ち向かう人間の凱歌を!!
金融危機の根にひそむ拝金主義

 アメリカのサブブライムローン(低信用者向け高利の住宅ローン)の焦げ付き、リーマン・ブラザーズの経宮破綻などに端を発する、昨年秋のアメリカ発金融危樵は、「100年に1度」といわれる衝撃をもってグローバル社会を襲いました。それは、経済恐慌から世界大戦へと転落の道を歩んでしまった1930年代の悪夢を想起せざるをえない。暗夜を手探りで進むような状態が続いていますが、金融危樵は、世界的な景気の後退、雇用情勢の悪化など容赦なく実体経済の足元を脅かしており、80年前の大恐慌が、金融危機から1、2年を経過して、本格的なパニック(混乱)に陥ったことを考えると、事態の推移はまったく予断を許しません。
 人間は、平和に人間らしく暮らす権利を持っております。大多数の人は、そのために孜々として怠らずに、日々の富みを続けており、その生活基盤が、予想だにせぬ、、しかもほとんど関知しない次元からの「津波」のような衝撃によって翻弄される事態などあってはならない。
 事態をこれ以上悪化させないためにも、各国は、より一層緊密に連携をとりながら、財政、金融等あらゆる面で、衆知を結集し、後手にならぬよう、全力で取り組んでいってほしいと思います。

「貨幣」に対する際限のない欲望

今回の破綻の最大の原因は、いうまでもなく、一説には世界のGDP(国内総生産)の4倍にものぼるとされる金融資産の跳梁跋扈にあります。「暴走する査本主義」「強欲資本主義」篝の言葉が飛び交っているように、本来、経済活動を円滑化するための"脇役'であるべき金融が、“主役”の座を占拠し、それがどのような余波をもたらすかなど我関せず、ひたすら利益、儲けのみを追い続ける人々が、時代の寵児のごとくもてはやされてきました。
 その根底には、この提言で何度も管告してきたように、「貨幣愛」にとりつかれたグローバル・マモニズム(拝金主義)ともいうべき文明病が横たわっております。イデオロギー崩壊後の世界の潮流は、ポスト冷戦への人々のほのかな期待をあざ笑うかのようにマンモン(富の神)の宰領する世界になってしまったといっても過言ではない。
 グローバルな市場経済を差配する「貨幣」とは、紙か金属片(最近では電子情報)にすぎず、周知のように使用価値は、皆無に近い。有するのは、交換価値のみです。交換価値とは、人間同士の約束事として成り立っているもので、本質的に抽象的、非人称的な存在といってよい。それは、財やサーピスのように具体的な、それゆえに限定的な対象物をもたず、際限のない広がりをも つ。欲望の対象として限界がない。そこに「貨幣愛」というものの特徴というが宿命的な病理があります。

 哲学者マルセルが警告していたもの

 金融市場のみならず市場経済全体を貫く「効率性と不安定性との根源的な『二律背反』」(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』筑摩書房)が指摘される所以でしょう。利潤をあげるための限りなき効率性の追求と、実体の裏付けを欠く貨幣というものの不安定性―それは、「個人」の自由な経済活動を基調にした市場経済が発達した現代の宿命といえるかもしれません。
 ところで、哲学者のガブリエル・マルセルが、第2次世界大戦を顧みながら、「抽象化の精神―戦争の要因たるもの」という興味深い論点を提起していたのを記憶しています(以下、小島威彦訳『マルセル著作集6』春秋社)。
 いうまでもなく抽象作業そのものは、人間の知的な営みに欠かせないものです。早い話、「人間」などというものは存在しない。実質は、日本人やアメリカ人であり、男や女であり、青年や壮年であり、何々県人でありと細分化していくと、つまるところ、十人十色一人として同じ人間はいません。それが具体性の世界の実像です。それをきちんと踏まえた上で「人間」を論じないと抽象概念が独り歩きしてしまう。
 マルセルいうところの「抽象化の精神」とは、その具体性から乖離した悪しき独り歩きの謂であります。人間は、例えば戦争に参カロするとなると、個々人の具体的な人格的特性をすべて捨象し、敵を抽象的な概念-ファシストコミュニストシオニストイスラム過激派、等々-で括ろうとする。マルセルが分析するように、「これらの存在者を絶滅する用意をせねばならなくなるその瞬間から、まったく必然的に私は、亡ぼさねばならないかもしれないその存在者の個人的実在についての意識を失ってしまう。かかる人格的存在を蜉蝣のごとき姿に変えるためには、是非ともその存在を抽象概念に変換してしまうことが必要」だからです。そうでなければ、戦争参加を意義づけ正当化することはできないからです。
一番の問題は、そうした「抽象化の精神」は、ニュートラル(中立的)で没価的な境位に止まっていず、「価値眨下的な帰納」(意訳すれば、 価値を眨めるための決めつけ)を引き起こす「情念的側面」、怨念(ルサンチマン)を随伴している点にあります。
  すなわち、抽象的概念で括ったとたん、それらは無価値なもの、低級なもの、有害なものとして、駆除されるべき対象の位置まで眨められてしまう。人 格的存在としての「人間」は不在となる。「抽象化の精神は情念的な本質を もっているものであり、逆にいえば、]情念が抽象物を捏造する」と述べるマルセルは、故に自分の哲学上の全仕事は「抽象化の精神に対する休みなき執拗な闘い」と位置づけている。この指摘は、今なお、光を失っていないと思いま
す。

経済至上主義がもたらした社会の閉塞感
暴力と惨劇の轍を踏まない解決を
貧困と雇用問題の対処は政治の責務

人間の正視眼が見失われた社会

 現今の金融危機、経済危樵の経緯に目をやる時、時流は、ある種の「抽象化の精神」にからめとられてはいないでしょうか。「貨幣」の抽象性、非人称世界に住するメドゥサ=注1=の魔力の餌食となって、それを、人間社会に不可欠なものではあっても、あくまで約束事、バーチャル・リアリティー(仮想現実)lこすぎないと看破する、「人間」としての正視眼を失い、貨幣への「崇拝」あるいは「呪詛」といった「情念」に目をくらまされてはいないでしょうか。
  拝金主義とは、いうまでもなく「崇拝」の産物であり、「貨幣」という物的欲望を超える欲望の虜になって、会社に例をとれば、その社会への貢献といった“ 公”の側面など無視して、短期的な利益にしか関心のない株主の”私的”意向 が最優先され、経営者、従業員、顧客・消費者などへと広がる具体的な人間の繋がりといった人称世界の具体的な事どもは、二の次、三の次として、捨象されてしまう。-不本意ながらもそういう嫌な役回りを演じざるをえなかった、という良心的経営者の嘆きの声が、世界の各地から聞こえてきます。
「全体人間」であって初めて、真に人間たりうるという人間の条件を忘失し、 「抽象化の精神」の化身ともいうべき、貨幣的価値しか念頭にない「経済人」 (ホモ・エコノミクス)へと、それとしらず身を眨めてしまっている-金融主導 のグローバリゼーションは、その種の人々を、おびただしく輩出してしまった。
グローバリズムと反比例するかのような人々の閉塞感は、“利”に目が眩 み、「私は、私と私の環境である」(A・マタイス/佐々木孝訳『ドン・キホーテに関する思索』現代思潮社)というオルテガ・イ・ガセットの不朽のテーゼなど我関せず、自然環境や文化環境(由緒ある町並みや地域コミュニティーなど)を破壊しておいて、なおかつ人間社会が存続し得るかのような錯覚に陥っている傲慢なエゴイズムの、自ら招き寄せた末路とはいえないでしょうか。
 もとより「経済人」といっても特定の人間を指すのではない。資本主義そのものに内蔵されているベクトル(力の方向性)の所産であって、株主は当然のこと経営者や従業員、顧客・消費者といえども、査本主義が純化されてくればくるほど、そのベクトルに従わざるをえなくなる。従わなければ、少なくとも短期的には損をする。