第34回 「SGIの日」記念提言  上・中・下 2009年1月26日

資本主義の暴走が招いた社会の混迷

『勝者の代償』以来、ニュー・エコノミー(現代資本主義)の行き過ぎた動向に警鐘を鳴らしてきたロバート・ライシュ氏(クリントン政権時の労働長官)は、近著『暴走する資本主義』(原題は『超資本主義』。雨宮寛・今井宣子訳、東洋 経済新報社)で、「全体人間」の帯びる多面的性格を、端的に「投資家」「消費 者」の側面と「市民」の側面との二つに要約し、「厄介なことに、私たちはほとんどみな二面性の持ち主なのだ。消費者や投資家としての私たちは有利な取引を望むが、市民としての私たちはその結果もたらされる社会的悪影響を懸念する」と指摘しています。
  肝心なことは、両者のバランスをどうとるか(全体人間たろうとするか)にあるが、「超資本主義」の下では「消費者と投資家が権力を獲得し、市民が権力を失ってきた」と。
その結果もたらされたのが、資本主義の優位と民主主義の劣位であります。そこを席巻する拝金主義という一元的価値観が、世界的に所得格差の拡大、雇用の不安定化、環境破壊など、資本主義の負の側面を増進させてし まった。
  それどころか、最近の金融危機、経済危機は、正の側面である富の拡大という面でも、実体と乖離した胡散臭いものではないかという疑念を満天下にさらしてしまいました。
 規制緩和や技術革新を追い風に順風満帆のように見えたグローバリゼーションも、今や世界同時不況という台風並みの逆風にさらされています。自由競争に任せておけば、市場は万事うまく運ぶといった予定調和的な行き方の破綻は、誰の目にも明らかなのですから、かつてない難局への対応は焦眉の急を告げています。
 金融資本の目にあまる暴走には、ブレーキをかけねばならないし、企業実績の急激な落ち込み、それに伴う雇用情勢の目を覆うばかりの悪化は、可能な限りでの大胆かつ迅速な対応(財政、金融面での支援、セーフティーネットの整備など)が急務であることは論を待ちません。
 特に私どもが忘れてならないのは、今日の国際情勢を覆う貧困の問題です。 それは、職業という人間の根源的な営みを脅かし、生きる意味、目的、希望など、人間の尊厳、社会の存亡に関わるものだけに、総力を挙げて取り組んでいかなければならない。今こそ、大所高所に立った経綸の才が求められていること、特に政治家は、自覚すべきであります。グローバル資本主義という暴れ馬の手綱を引き締める役割は、何といっても「政治」や「国家」に課されるところ大であるからです。
 同時に、「国家」による統制、コントロールに期待する余り、万が一にもファシズムの台頭を許した1930年代の轍を踏むようなことがあってはならない。その意味からも私は、マルセルのいう「抽象化の精神」の警鐘に耳を傾ける必要があると思います。

「呼称」が先行し独り歩きする弊害

日本では、グローバリゼーションの「負」の現象として、「格差社会」や、「勝ち組」「負け組」といった嫌な言葉が飛び交っています。
 いうまでもなく、昨今のように生活が脅かされる人々が続出する事態は一刻も放置できず、何らかの対応が必要不可欠なること、繰り返すまでもありません。それと同時に留意すべきは、これらの現象を十把一絡げに、抽象的な「呼称」で括ってしまうと、個々の努力といった人間の具体的な事実の世界が見えlこく<なってしまうということではないでしょうか。
 どんな境遇に置かれようと、社会状況が厳しくとも、外的条件lこのみ依存するのではなく、気力を奮い起こして壁に立ち向かっていく多くの人たちの実像は、そうした「呼称」からはほど遠い。
 勝ち負けといっても、永遠に続くものではなく、またそれらの「呼称」が、経済至上主義的な価値観から一歩も出るものではなく、全人格的価値観を覆うに足らずと、勝って徹らず負けて挫けず、毀誉褒貶を眼下に見ながら、悠々と生きている人々を、有名無名を問わず、社会は数限りなく有しているはずであります。
 十把一絡げな「呼称」があまりにも頻繁に使われると、そうした人間としての価値や尊厳性、創意工夫をこらし、苦難に立ち向かおうとする気概や勇気を矮小化し、それに水を差す結果をもたらしかねないのではないでしょうか。
  その結果、マルセルのいう「何か最後の審判の離型みたいなものを見ようとする弱い精神」(前掲『マルセル薯作集6』)、人間性に背を向けた、他力本願的な暴力志向への誘い水になってしまいはしないかということを恐れるのであります。
 13年前、アメリカ経済が”我が世の春”を謳歌していた頃、『ニューズウィーク』誌(日本版、 96年2月21日号)は、「理想の社会はどこに」との特集の冒頭で、「うまくいっているのに、誰もが不満をもっている。それが私たちの時代のパラドックスだ」と書き起こしていました。
 専ら金銭的収入の多寡という物差しでしか、人間的価値の優劣を論ずるしかない経済至上主義、拝金主義の地平には、原理的に”自足”はありえません。
 常に何がしかの怨念一不満や羨望が渦巻き続け、それは、社会を停滞させる"嫉妬社会,の温床であります。

若者に贈られた文豪からの助言

 昨年亡くなった友人で世界的文豪であったチンギス・アイトマートフ氏の言葉を想起します。
 氏は「父親としての助言」として、「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。(中略)無血の進化の道を、社会を道理に照らして改革する道を探し求めて下さい」(『大いなる魂の詩』、『池田大作全集第15巻』所収)と切々と語っていました。
マルセルが「弱い精神」からの決別を訴えたのは、ファシズムよりも共産主義(=ソビエト社会主義)への警戒を第一義としていました。
執筆時期が1951年(ファシズムは壊滅し、共産主義は声望を維持していた)であることから当然ですが、彼が最も警戒したのは、「失うものは鉄鎖のみ」「収奪者が収奪される」といった抽象的なスローガンが、あたかも歴史的必然であるかのように装い、怨念をかきたてて、革命という大義のもとに暴力、流血の惨事を招き寄せてしまうからです。
70年余にわたる社会主義の興亡の歴史は、彼の洞察の正しさを十二分に立証しております。
また、貨幣に象徴される拝金主義的な価値観への嫌悪、呪詛にもがかわらず、かつての社会主義が、ついにそれを乗り越えることができなかったことは、歴史の重い教訓といえるのではないでしょうか。
 そろそろ、発想を転換し、文明論的なパラダイム・シフト(思考の枠組みの転換)を図っていかなければならない。
 暴走する査本主義にブレーキをかけるために何より有効なのは、法的・制度的な統御であることは前述しましたが、それらが、その場しのぎの弥縫策に終わるのではなく、長期的なビジョンに繋げていくためには、パラダイム・シフトを避けて通ることはできないと思うのであります。
80年前の大恐慌の頃は、査本主義に取って代わるものとして、曲がりなりにも社会主義(共産主義であれ、国家社会主義であれ)というパラダイムがあった。
しかし、今は、それに代わるような理念、ビジョンは、提起されておりません。

人道に基盤を置く競争へのパラダイム転換が不可欠
20世紀の歴史が物語る外在的な普遍の危うさ

「理念」に基づく「世界像」の探求を

ところで、サルコジ仏大統領のブレーンであるジャック・アタリ氏は、『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社)で端的に分析しています。いわく、「現状はいたってシンプルである。つまり、市場の力が世界を覆っている。マネーの威力が強まったことは、個人主義が勝利した究極の証であり、これは近代史における激変の核心部分でもある」と。
 すなわち、グローバルな拝金主義とは、半面、あらゆるしがらみから自由になった個人主義の勝利であり、「貨幣」の抽象的普遍性は、労働力商品としての「個人」の抽象的普遍性とコインの表裏を成しているということでしょう。いうまでもなく、この個人主義をペースに、自由や人権等の普遍的理念も形成されてきたのであり、資本主義と近代民主主義は、かなりの部分で重なっている。
 今、資本主義や民主主義を内実とする近代社会のシステムが、抜き差しならぬ袋小路にあるとすれば、何としても、それに代わる普遍的な視座、往時のプロレタリア国際主義=注2=の轍を踏むことのない新たな理念の地平を切り拓かねばならない。危機回避のための差し迫った対応は当然のこととして、より巨視的な展望に立った、例えば、マックス・ヴェーバーが、「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきた」(大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房)と述べたような時代精神が、今こそ構想されねばならないでしょう。
善かれ悪しかれ、地球社会のグローバル化は、そこまで進んでいるからです。