第34回 「SGIの日」記念提言  上・中・下 2009年1月26日

 100年以上前の先見的な発想

 そこで私が、資本主義の袋小路を抜け出すための発想の転換というか、新たなパラダイム・シフトへのヒントとして提唱したいのが、創価学会の枚□常三郎初代会長が、100年余り前に32歳で世に問うた『人生地理学』で提起した「人道的競争」という概念であります。
  牧□会長は、人類史を俯瞰しながら、生存競争は軍事的競争、政治的競争、経済的競争をへて、これからは人道的競争を目指すべきだと訴えました。
  もとよりそれらは、截然と区分けできるものではなく、例えば軍事的背景をもった経済的競争もあれば、逆もまた真である、といつたふうに、多くの場合、 輻輳し重なりあいながら、漸進的に変化を遂げてくる。その過程を丹念にかつ 大胆にたどってみれば、紆余曲折をへながらも、人類は凡そそのところ、その方向を目指しているし、そうあらねばならない。-こうして牧□会長は、超歴史的観点からではなく、学者らしく、歴史の内在的発展の論理をたどりながら、「人道的競争」という帰結に至っているのであります。
その中身に目をやれば、短い記述のなかに、今なお新しいというよりも、時とともに輝きを増す洞察がちりばめられております。
  例えば、「武力若<は権力を以てしたると同様の事をなしたるを、無形の勢力を以て自然に薫化するにあり。即ち威服の代わりに心服をなざしむるにあり」 (『牧□常三郎全集第2巻』第三文明社。現代表記に改めた)と。
  このくだりなど、私の知友に引き寄せていえば、何度かお会いしたハーバード大学のジョセフ・ナイ教授の「ソフト・パワーとは何なのか。それは、強制や 報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力である」(山岡洋一訳『ソフト・パワー』日本経済新聞社)との指摘と、瓜二つではないでしょうか。
また、牧□会長の言葉に「要は其目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとするl=あり。反言すれば他の為めにし、他を益しつつ自己も益する方法」(前掲『牧□常三郎全集第2巻』)とあります。
 これは、アメリカの未来学者へイゼル・ヘンダーソン博士の提唱する"Win-WinWorld(皆が勝者となる世界)と強く響き合っていないでしょうか。あらためて、若き牧□会長の洞察に思いを致さざるをえないのであります。
 残念ながら、その後の歴史は牧□会長の期待を裏切ってしまったが、100年の歳月を閲した今こそ、「人道的競争」という先見的着想、ビジョンへと、パラダイム・シフトしていくべき"時'であると声を大にして訴えたいのであります。
 なぜなら、指摘するまでもなく、資本主義のもたらす弊害を除去するために、社会主義が標榜した「平等」「公正」等のスローガンは、国内的にも国際的にも、まさしく「人道」、ヒューマニズムに立脚した理念以外の何物でもないからであります。制度としての社会主義の失敗ともども、それらをも葬り去ってよいものでは、決してない。そうであっては、なぜ社会主義運動が、人々とくに若者たちの心をとらえ、一時は地球の3分の1までを席巻するに至ったのかという、20世紀の貴重な教訓までも忘却の淵に沈めてしまいます。
  正しい理念を標榜しながら、なぜ社会主義は蹉秩を余儀なくされたのか?
  今さら論ずるまでもないことですが、本論に即して一言でいえば、牧□会長が「苟くも天然、人為の事情によりて自由競争の阻礙せらるる所。是れ沈滞、不動、退化の生ずる所」(同)と喝破した、人間社会の活力の源泉である「競争」的側面を、あまりにも蔑ろにしてしまったからだといってよい。階級をなくし 外的条件さえ整えれば、人間らしい社会が実現するかのごときバラ色の未来像に寄りかかりすぎました。
 エゴイズムの赴くままの野放図な自由競争は、弱肉強食の社会ダーウィニズム(自然淘汰主義)に陥りますが、適正な枠組みとルールに基づく競争は、人間と社会に活力をもたらします。それ故に、競争的側面を直視しつつ、むしろ人道という価値を基盤におく競争に転換し、「人道」と「競争」の両方の価値を相乗的に顕現させようとする「人道的競争」こそ、21世紀を拓きゆくパラダイムの先駆けたりうるものではないでしょうか。

訳知り顔で一挙に未来を語る傲慢さ

しかし、新たなパラダイムへの模索のプロセスは、マルセルの警告するように、あくまで具体性に即してたどらなければならない。
 一拳lこそして訳知り顔に、人類史が目指すべきグランドデザインを提示しようなどという性急さ、思い上がりは、「抽象化の精神」の格好の餌食になってしまうにちがいない。その点は、ソ連邦興亡の歴史に照らして、ゴルバチョフソ連大統領が「20世紀の精神の教訓」として、警鐘を鳴らしていたところであります。
その点、歴史の生き証人として、ゴルバチョフ氏はさまざまな例証を挙げていましたが、中から、世界的なオペラ歌手フョードル・シャリャーピンの、いかにも芸術家らしい機知に富んだ証言を紹介しておきます。
「不幸にも、われらがロシアの”建設者たち”は、ほどよい、いかにも人間的 なプランにしたがって、平凡な人間向きの建物を建てるところまで、自分を凡人化しようとはしなかった。どうしても、空中にそびえ立つ塔・バビロンの塔を造ろうとしたのです。彼らは、ごく普通の調子の健康的な歩調で、人々が仕事に行き、また、仕事から家に帰ってくるようなことに満足できなかった。彼ら は、すぐに"七マイル間隔,の歩幅で未来に突進しなければならないと思ったのです。"古い世界に別れを告げよう,と思うや否や、すぐにでも、古い世界を根こそぎ何も残らないように、一掃してしまわなければならない。何よりも驚くべきは、われらがロシアの"賢人たち,が何でも知っているということなのです。彼らはー(中略)-兎にマッチのつけ方を教えるにはどうすればいいかも知っている。その兎が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている。 そして二百年後のこの兎の子孫が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている」(『二十世紀の精神の教訓』、『池田大作全集第105巻』 所収)と。
  やや長い引用になりましたが、「抽象化の精神」の虜になった人間が、いかに民衆の具体的生活、生活実感からかけ離れたモンスターと化すかを、カリカチュアライズ(戯画化)しながら、活写しております。
「ほどよい、いかにも人間的なプラン......」「ごく普通の調子の健康的な歩調 ......」とは、マルセルいうところの具体性と重なります。この具体性の世界か ら足を踏み外し、「抽象化」に魅入られてしまうと、思わぬしっぺ返しを受けざるをえない。

人間社会を蝕む「隣人の否定」

 アイトマートフ氏も私との対談で取り上げていた有名なエピソードですが、スターリン時代、パヴリック・モロゾフという少年が、父親が富農(クラーク)と親密であることを、当局に密告した。父親は犠牲になり、少年は、怒った親族の手で殺されるが、逆に当局からは、社会主義少年英雄として銅像まで建てられ、宣揚された。-イデオロギーという「抽象物」が、親子の情愛という「具体的」なモラルを飲み込んでしまった一例であります。
 マルセルは、その一方でアメリカに代表される産業文明、機械文明の病理にも容赦しませんでした。「まさしくテクノクラシーこそ、何よりも隣人の抽象化をなしでついには隣人を否定するところに成立つ」(前掲『マルセル著作集6B』)と。
  半世紀たった今日、テクノクラシーの延長上にある金融工学を駆使した金融商品で巨額の利益を追い求める一握りの富者が、貨幣という「抽象物」の化身さながらに、膨大な貧者に目もくれず巨万の富を独占している惨状が、マルセルの切っ先を逃れることができるでしょうか。「隣人の否定」の上にしか成り立たないような繁栄など長続きするはずがないし、また、させてはならない。
  私は、まだソ連邦が存続していた20年前のこの提言で、普遍的な視座、理念へのアプローチは、「外在的」あるいは「超越的」なものであってはならず、徹して人間に即した「内在的」なものでなくてはならないとして、「内在的普遍」ということの重要性を訴え、多くの識者の賛同をいただきました。

牧口初代会長が『人生地理学Jで提示した
「内在的普遍」のアプローチ
身近な地域を足場に世界へ思いをめぐらす
「健全な生命感覚」の復権

イデオロギーや貨幣の普遍性とは、まさに「外在的」「超越的」普遍性であり、「抽象化の精神」の産物なるがゆえに、具体的存在としての人間や社会を蚕食してやまないのであります。私の申し上げる「内在的普遍」とは、その対極に位置しており、徹して具体性の世界に根を下ろし、その内側からのみ探り当てることが可能となるであろう普遍的な視座、理念のことであります。
 課題は身近にあります。身近で具体的なところにこそあります。一昨年来、日本ではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社)がベストセラーになり、話題を呼びましたが、その中で、無神論者の次兄イワンが、弟のアリョーシャにこう語る場面があります。
「どうすれば身近な人間を好きになれるのか、おれはいちどだって理解できたためしがないのさ゜おれに言わせると、身近な人間なんてとうてい好きlこなれない、好きになれるのは遠くにいる人間だけ、ってことになる」と。
 もとよりこれは逆説であって、愛を論ずる場合、遠い抽象的な対象に対してならば、さしたる抵抗感もなく、□lこすることができる。しかし、身近な者、とくに自分とそりの合わない人間となると、そうはいかない。そういう人を愛するには、極論すれば山上の垂訓=注3=に象徴されるような全人格を賭した精神 的格闘、魂の回心劇を要するはずだ。身近な「一人」とは、その意味で人間愛 や人類愛の真価を問う試金石であり、リトマス試験紙なのである-イワン一流の逆説であり、皮肉であります。「抽象化」を待ちうける落とし穴であって、 仏典では「一人を手本として一切衆生平等」(御書564ページ)と、その点を厳しく戒めているのであります。