池田名誉会長講義 御書と師弟 第7回-1 不惜身命と現代  2009年2月19日付 聖教新聞

2009年2月19日付 聖教新聞

池田名誉会長講義 御書と師弟 第7回-1 不惜身命と現代

死身弘法が創価三代の魂
『不惜の喜悦』の大境涯を開け
大宇宙の根本法則に生き抜け


御聖訓
 されば我が弟子等
 心みに法華経のごとく
 身命もおしまず修行して
 此の度仏法を心みよ
   (撰時抄、291ページ)

 「なぜ、不惜身命の信心が大切なのでしょうか」
 ある時、私は戸田先生にこう質問をしたことがあります。
 先生の答えは明快でした。
 「人間の業というか、社会は複雑で、矛盾だらけである。どこにも、万人の幸福への根本的な道はない。
 そのなかで、日蓮大聖人の仏法は、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄という、永遠の所願満足の生命の軌道を教えてくださっている。
 これ以上の究極の人生の道はない。だから、信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」
 戸田先生にお仕えして六十年余──。本当に恩師のおっしゃる通りです。師の教えのままに、世界広宣流布に身命を捧げてきた私の胸中は、「不惜の喜悦」に満ちあふれています。この使命の無上道を、私は今、青年に伝えたい。
 仏法の真髄は、どこまでも不惜身命、死身弘法の精神にある。命を惜しまず、広宣流布に進みゆく行動にあります。
 ドイツの大詩人シラーは、「己の命をかけぬものは、何も勝ち取ることはできない」と断言しました。
 正法のため、人々のために、わが命を賭して戦い抜くことこそ、自分自身の生命を最高に輝かせる生き方なのです。
 この仏法の生き方は、実は現代社会にとって最も大切な指針となっています。今回は「撰時抄」を拝読し、この大精神を学んでいきましょう。

 必ず勝利の現証が

 日蓮大聖人は「撰時抄」で、正しき哲理が隠れ没する末法という"時"をあえて撰んで、南無妙法蓮華経の大白法を日本一国に広宣流布し、一閻浮提に大興隆させゆくことを述べられています。
 さらに、日蓮大聖人御自身こそ、この大白法を弘める人であられることを高らかに宣言されました。そして如来の金言は絶対に間違いないと示され、「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(御書291ページ)と呼びかけておられるのです。
 わが弟子たちよ、命も惜しまず修行して、仏法を実践せよ!
 末法の不惜身命の闘争とは、三類の強敵に打ち勝つことだ!
 これが大聖人の厳命です。
 「身命もおしまず」──不惜身命とは、法華経勧持品第13に説かれている金言です。菩薩たちが、身命を惜しまず妙法を弘通することを誓った言葉です。
 大聖人が「撰時抄」で示された「師弟不二の道」。「破邪顕正の道」。そして「一生成仏の道」。それは、まさしく「不惜身命の道」なのです。
 不惜身命に徹し抜けば、必ず勝利の現証が出ます。それが「心みよ」の大確信です。
 この御聖訓に寸分違わず、初代・牧口先生、二代・戸田先生は、軍部権力の弾圧にも屈することなく「死身弘法」を貫かれた。第三代の私も、この初代・二代の精神のままに三類の強敵と戦い抜いてきました。この三代の仏法勝負の現証が、今日の学会の大発展に他なりません。
 さらに、この不惜身命という思想は、人生観の上からも深く論ずることができます。
 歴史家のトインビー博士も慨嘆されていた通り、どんなに文明が進んでも、「生死」という根本の問題への解決にはつながらない。
 何のために生き、何のために死んでいくのか。生命は、いずこより来たり、いずこへ行こうとするのか──。この間いかけに答える道こそ、仏法の探究であり、実践であります。
 誰でも、自分の命は何よりも大事です。しかし、わが身を惜しむあまり、他人を傷つけたり、自分の命までも無駄にしてしまう場合が、あまりにも多い。戸田先生が言われた遣り、まさに「人間の業」です。

 現代文明へめ指標

 「佐渡御書」には、いくら命を大事にしようとしても結局、「ゑ(=餌)にばかされて」釣り針を呑む魚や、網にかかる鳥の例が挙げられています。こうした動物と変わらない根源的な迷い、すなわち「無明」が人間生命の根底にあります。
 この人間の「無明」から起こる「貪り」「瞋り」「癡か」という生命の歪みが、飢餓、戦争、疫病、環境破壊など、多くの文明的な課題の元凶になっていることも事実です。
 ゆえに、この「無明」を打ち破らない限り、人類の宿命転換の道を開くことはできない。世界の心ある識者たちは、人間自身の生命の変革こそ現代世界の急務であるという点で、意見が一致する時代となりました。
 確かに、富や権力や名声、快楽などをいくら追い求めても、それは、所詮、「夢の中のさか(栄)へ・まぼろしの・たのしみ」(御書386ページ)に過ぎません。あまりにも儚い。永遠の幸福を得ることはできません。今、経済の激動のなかで多くの人々が、このことに気づき始めていると言えるでしょう。
 そもそも、なぜ現代は、こんなにも生命が軽んじられる社会になってしまったのでしょうか。一次元からいえば、それは人々が、自らの命を賭しても悔いないと思えるだけの大切な「理想」や「目的」を見失ってしまったからです。
 ロシアの大文豪トルストイは、明言しました。
 「真理のためには何物をも恐れず、常にわが生命を投げだす覚悟でいる人は、みんなが恐れる人や人々の生殺与奪の権を握っている人よりもはるかに強い」(北御門二郎訳)
 本来、自分の命を捧げて貫く"道"をもった人は、自分や他人の命の尊さを心から実感できるものです。逆に、自分を律し高める"道"をもたない人は、エゴや欲望や臆病などの激流に翻弄され、些細なことで虚しく命を落としてしまいかねない。
 大宇宙の原動力たる極理を説き明かした妙法を持つ私たちの信仰は、生命を最大に輝かせゆく価値創造の太陽です。
 妙法には、万人の生命の無明を打ち破り、本源的な智慧と勇気と慈悲を引き出し開花させゆく偉大な力用がある。そして、そのためには菩薩の実践が不可欠です。この菩薩道を万人に開く哲学と行動を、人類は求め続けてきたといってよい。

 生命尊厳のゆえに

 要するに、わが命をかけて悔いのない、不惜身命にふさわしい、人類の境涯を高めゆく無上道──それが仏法です。宿縁深く、この仏法に巡り合えたのだから、弟子たちよ、不惜身命で、命がけで心みよ! こう御聖訓は訴えておられるのです。
 戸田先生は言われておりました。
 「私は広宣流布という尊い仕事に、自分の命をかけさせていただいた。どんな人間でも、崇高なる目的に生きることによって、強く、大きな力を得ることができるものだ」
 仏法では、この生命は全宇宙の中で一番尊い、生命よりも尊いものはない、と説かれております。
 ゆえに仏法は、徹底した「生命尊厳」「戦争反対」「非暴力」の平和思想であります。生命を慈しみ合い、大切にし合いながら、生き抜いていくことを教えているのです。
 三千大千世界という大宇宙に敷きつめた財宝よりも、大切な一日の生命である。だからこそ、「浅き事」のために浪費してはならない。「大事の仏法」のために、命を惜しまず生き抜くのです。
 妙法は、全人類を善の方向へ導く法則です。その妙法に全生命を捧げる生き方は、どれほど深遠で、偉大で、尊いものでありましょうか。

池田名誉会長講義 御書と師弟 第7回-2に続く