池田名誉会長講義 御書と師弟 第7回-2 不惜身命と現代  2009年2月19日付 聖教新聞

2009年2月19日付 聖教新聞
池田名誉会長講義 御書と師弟 第7回-2 不惜身命と現代

 小我から大我へ

 不惜身命といっても、決して命を"粗末にする"ことではありません。
 仏法では「帰命」と説いています。「帰」とは、仏法の不変の真理に「帰する」こと。「命」とは、仏の随縁の智慧に「命く」ことを意味します(御義口伝、御書708ページ)。
 「帰命」とは、いわば大宇宙の根本法に生命を捧げることです。妙法という絶対の真理に身を捧げると同時に、現実生活で生き生きと智慧を発揮させていく。この往復作業こそが「帰命」の真の意義なのです。
 一滴の水は、そのままではいずれ消え失せてしまう。しかし大海に融け込むならば、永遠性の命を得ることができます。
 妙法に命を捧げることで、"小我"を捨て、"大我"に立脚した、より素晴らしい根源的な命を輝かせることができる。新しく生まれ変わった生命で、生き切っていける。これが久遠元初の妙法を持つ信仰の極意であります。
 誰人も、死は避けられません。人間は誰しも、いつかは必ず死んでいく。しかし、その生命を妙法のために捧げていけば、その魂は、御本仏日蓮大聖人の大生命と一致します。大宇宙の仏界の大生命と一体化していくのです。
 妙法を弘めるために働き、妙法のために苦労して戦い、妙法のために人生を生き切る人は、最極の生命の次元に融合する。
 どんな大学者も、大富豪も絶対に敵わない、尊極の境涯を開いていけるのです。
 妙法に生き、妙法に戦い、妙法に死んでいく生命は、大宇宙に遍満して自由自在です。
 すべてを「歓喜の中の大歓喜」(同788ページ)に変えゆく妙法です。妙法に生き抜けば、「生も歓喜」「死も歓喜」という絶対的な幸福境涯を勝ち取れるのです。そのための今世の修行であり、今の労苦です。
 戸田先生は言われていた。
 「私は二年間の獄中闘争に勝った。それは己を捨てたからだよ。牧口先生にお供して、広布にわが身をなげうつことを決めたから勝ったのだ。そう決めた時から、何の迷いも恐れもなくなった」と。
 この牧口先生、戸田先生の「不惜身命」の戦いを思えば、私たちの苦難は九牛の一毛にすぎません。

 真面目な人が勝つ

 私は長年、大勢の人間を見てきました。人間というものは、本当に立派な人物は少ないものです。大聖人は「いとをしと申す人は千人に一人もありがたし」(御書1418ページ)と仰せになられています。
 御本仏の時代でさえ、五老僧をはじめ、心の底では師匠を見下し、"我偉し"と思う増上慢の輩が多かった。師匠を尊敬するどころか、提婆達多の如く師匠に嫉妬する者さえいた。
 学会でも、戸田先生の事業が苦境に陥るや、悪しぎまに先生を罵倒して去っていった者たちがいた。
 これが人間界の実相です。
 大恩ある学会に反逆した退転者たちは皆、勤行・唱題を怠け、学会活動を疎かにし、魔に食い破られて己の増上慢の生命の虜となってしまった。そして人生が狂い、無惨に滅んでしまったことは、皆様がよくご存じの通りです。
 仏道修行は、真面目に、誠実にやり抜いた人が勝つ。学会という最高の「善知識」の組織とともに歩み抜いた人が勝つのです。
 命を惜しまず、広宣流布のために戦い切るならば、どれほど偉大な境涯を開くことができるか。これを自らの生命で体験し、実証することです。
 革命とは死なり! 我ら戸田門下生の革命は、妙法への帰命なり! 私はこう思い定めて、一心不乱に恩師をお護りし、学会を護り、同志を励まし、正義の陣地を広げに広げてまいりました。
 役職の上下ではない。死に物狂いで戦った人が偉いのです。学会は仏そのものの団体です。師匠と、この学会を大事にすることが、日蓮大望人を大事にすることです。
 不惜身命とは、人に強いることではありません。自分が真剣かどうか、一人立つかどうかです。
 真剣でないところに、油断が生まれ、魔が入る。リーダーが真剣なところは魔がつけ入れない。皆が真剣であれば、邪悪との戦いにおいても、必ず明白な勝利の現証が出るのです。とくに、婦人部の一心不乱の祈りほど、強いものはありません。

 永遠性の光を放て

 身命を惜しまず、法を護り、師を護り、同志を護る。それが一番、尊い人生です。宇宙で最も尊い人間性の真髄である。
 私は戸田先生を阿修羅の如くお護りする中で、こう日記に記しました。
 「毎日が、激戦! 若人は戦う、全生命力を、賭して。それが、尊く、それが美しい。疲労の中に、起ち上がる瞳、そこに、希望が湧く、未来が生まれる。そこにこそ、天の大聖曲が聞こえる」
 この尊極の大道を、わが門下の青年部に堂々と受け継いでもらいたいのです。
 「師弟不二」とは、言葉だけでは意味がない。弟子の心の根底が、師匠と合致しているかどうか。これが最も大切です。
 ドイツの音楽家クララ・シューマンは「人間は結局自分の使命に命をかけるのではなくって?」(高野茂訳)と語りました。
 いずこの分野でも、精魂を込めたものは永遠性の光を放っていくものです。芸術でも、学問・教育でも、スポーツでも、政治でも事業でも──一流の人物は皆、「命がけ」です。「不惜身命」です。血を吐くような思いで、自己の限界に挑む精進を重ねているものです。わが生命を注ぎ込み、努力に努力を重ねてこそ、後世に残る偉大な事業や作品が出来上がるのです。

 わが同志こそ尊貴

 十四世紀スペインの作家ドン・フアン・マヌエルは「命をかけるに値することであれば、身命を賭して誰よりも早く敢然とやりとげる人が、みずからを大事にする有徳の士である」(牛島信明・上田博人訳)との箴言を残しております。
 まして、仏法は三世永遠の宇宙の根本法則です。不惜身命で実践すれば、広大無辺の栄光と功徳に包まれゆくことは絶対に間違いありません。
 「石変じて玉と成る」(御書1423ページ)という力ある妙法です。妙法に生き抜く人生は、信念なき名聞名利の人生とは天地雲泥の差がある。
 戸田先生は言われました。
 「人間革命の運動は、世界的に広がっていくものだ。大作、吾が世界の広宣流布の道を、命を捨てて開いてくれ。これが私の心からの願いだ」
 私は、その通り戸田先生にお応えしました。
 そしてまた、この創価三代の精神を根幹として、現代社会で「不惜身命」の生き方をまっすぐに貫いておられるのが、わが学会の同志であります。
 皆様方は、この不況のなか、法のため、人のために懸命に戦ってくださっている。
 悩んでいる友がいれば、自分のことはさておいても飛んで行って励ます。夜更けまで、心から題目を送り続ける。勇気を出して「立正安国」という社会の正道を堂々と語る。民衆を愚弄する悪人に対しては、猛然と破邪顕正の論陣を張る──。この尊き皆様以外、一体、どこに「身命もおしまず修行」する闘士がいるでありましょうか。
 仏教流伝の三千年の歴史のなかで、一体、誰が「不惜身命」の法華経の行者なのか。「撰時抄」全体が、この一点をめぐって綴られた書であると言えます。この「撰時抄」を身読しているのが、創価学会です。
 日蓮大聖人直結の信心で広布に進む皆様方こそ、現代文明の最先端の哲学を体現する方々です。最高に尊貴な「不惜身命」の行者であります。その福徳は無量無辺であり、未来永遠に、子々孫々に、燦然と光り輝くことを、強く強く確信して進んでいってはしいのです。
 私と一緒に、不惜身命で進もう! 喜び勇んで、師子王の心で戦おう! 潔く、この仏法にわが人生をかけようではありませんか!

 堂々と
  創価の伝統
    受け継ぎて
  不惜の勝利は
    三世の勝利と

池田名誉会長講義 御書と師弟 第7回 不惜身命と現代〔完〕