【第17回】 末法流布の大陣列 2009-6-18

青年よ続け 歴史を創れ



御聖訓



日蓮さきがけしたり わたうども二陣三陣つづきて 迦葉・阿難にも勝ぐれ 天台・伝教にもこへよかし(種種御振舞御書、910ページ)



広宣流布は大河の流れです。

人材の限りなき流れです。

創価の師弟は、この迸る大河を全世界に漲らせてきました。

世界の一級の知性が、私たちの前進を心から喜び、賞讃を寄せてくださっています。

「SGI(創価学会インタナショナル)が発展し、人類の幸福のために前進を続ける限り、世界はより良い場所であり続けることでしょう」(オーストラリア・オーバン市のラム前市長)

「この一ネットワークのなかで日々、幾百万もの人々が日蓮大聖人の仏法を実践できることに、私は心から讃嘆申し上げます」(ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長)ー。

すごい学会になりました。

明年で創立80周年。学会は、平和と幸福の「静かなる大革命」によって、いまだかってない幾百千万の人間主義の連帯を創り上げました。

これは誰人も否定できない、歴史に燦然と輝く事実です。

民衆と民衆が成し遂げた大偉業であります。

わが同志の皆様こそ、人類の未来を切り開く「先覚者」にほかなりません。

大闘争の"自叙伝〃今回は、「種種御振舞御書」の一節を拝読します。

仏法史上、いな人類史上、最高に尊い広宣流布の大闘争に勇敢に躍り出でよと、日蓮大聖人が後継の弟子たちに力強く呼びかけられた御金言であります。

法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始めも一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり、わたうども(和党共)二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」(御書910ページ)

法華経の肝心・諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経を、末法の初めに一閻浮提(全世界)に弘めゆく瑞相(前兆)に、私は先駆けした。わが門下たちよ、二陣三陣と続きなさい。そして、迦葉や阿難にも勝れていきなさい。天台や伝教をも超えていきなさいー。

この「種種御振舞御書」は、文永五年(一二六八年)から建治二年(一二七六年)までの約九年間にわたる、日蓮大聖人御自身の御振る舞いを述べられています。いわば、大闘争の歩みを振り返られた〃自叙伝〃と拝されます。

この九年間は、竜の口の法難(文永八年)から佐渡流罪(同年~同十一年)という、大聖人の御生涯において最も激しい大難が競い起こった時期です。

また日本社会にとっても、内憂外患が打ち続いていた。二月騒動(文永九年)という内乱(自界叛逆難)。そして蒙古の襲来(同十一年)という他国からの侵略(他国侵逼難)ー。

日本中が、未曾有の国難に騒然としていました。

この末法濁世にあって、大聖人は、邪法邪師に誑かされた幕府の権力者の狂いを堂々と諌められたのです。



偉大な師を持つ栄光



大聖人は、「法華経の肝心・諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経を、ただ御一人、末法万年尽未来際の民衆を救いゆくために弘め出されました。

妙法を一閻浮提に広宣流布する瑞相に「日蓮さきがけ(魁)したり」。御本仏の大確信脈打っておられます。

本抄で「二陣三陣」と仰せられたのは、大難に立ち向かって、広宣流布の戦いが繰り広げられている真っ只中でした。

あらゆる難を「本より存知」として受けとめられて、「各各思い切り給へ」と御指導され、「わが門下よ、二陣三陣、続け」と厳命なされているのです。

師匠は、常に「先覚の道」を不惜身命の決意で、さきがけておられる。

ならば弟子もまた、その道に恐れなく続いてこそ弟子である。師が開かれた道に続くことは、弟子もまた先覚の誉れの道を歩ませていただくということにほかならない。

偉大な師匠を持つ人生ほど、誇り高い栄光はないのです。

そして、それは、釈尊の後を継いだ迦葉尊害や阿難尊者にも勝れ、さらに像法時代の正師であった天台大師や伝教大師をも超えゆかんとする道である。

末法広宣流布に生きゆく使命の人生が、どれほど崇高であるか。「うれしきかな末法流布に生れあへる我等」(御書1439ページ)と仰せの通り、それは大歓喜の行進なのであります。



学会は仏勅の教団



戸田先生は、この「種種御振舞御書」の御文を拝し、叫ばれました。

「我ら創価学会員こそ、この御聖訓に応えたものであり、この名誉と功徳は、何ものにもかえることはできえない」

釈尊、そして日蓮大聖人が仰せになられた「一閻浮提広宣流布」の遺命を実現しているのは、いったい誰か。創価学会以外にありません。学会こそが、仏意仏勅の最極の教団なのであります。

これもすべて、創価三代の師弟が、大聖人の御金言を寸分も違えず、競い起こる

三障四魔、三類の強敵と戦い、死身弘法を貫いてきたからです。

「さきがけ」lこの一言には「広宣流布の大精神」が凝結しております。それは、困難であればあるほど、勇気を奮い起こして、自分自身が、まず一歩を踏み出すことであります。



我らは人類の先駆者

わが勝利の頂上へ駆け登れ



私も「さきがけ」との仰せを心肝に染めました。戸田先生の弟子の「さきがけ」として走

り、妙法流布の拡大と勝利を切り開いてきました。

この祈りと闘争に、わが門下も必ずや「二陣三陣」と続いてくれるにちがいない。そう信じて、私は青年を育て、鍛えてきました。二世代、三世代、四世代と、全魂を注いで後継の友また友を薫陶してきたのです。



「紅の歌」の心意気



あの昭和五十六年(一九八一年)の秋、正義の反転攻勢の息吹の中で誕生した学会歌が「紅の歌」です。

真剣な輝く瞳の四国の言年たちと一緒に、私は二十数回の推敲を重ねて完成させました。この歌で、最初から最後まで一貫して残った言葉が「魁光りぬ」の「さきがけ」でした。

どんなに「邪悪の徒」が立ちはだかろうとも、我ら青年が、師と共に断じて「さきがけ」の戦を起こしゆくのだ!」の一つ戦に託された青年の心意気が、私は嬉しかった。

さらに「先駆の誉れの大九州」の同志、「若き先駆の英雄・学生部」の友をはじめ学会には「さきがけ」の大情熱が溢れています。

日本のみならず、百九十二カ国・地域で、正義の炎と燃える門下が陸続と起ち上がっている。世界に澎湃と涌き起こった使命の青年の大河こそ、創価の勝利の証しです。

迦葉や阿難をはじめ釈尊の高弟たちも、仏法正統の大指導者であった天台や伝教も、この広布後継の俊英の群像を見たならば、きっと驚嘆するにちがいない。そして心から喝采を送り、讃嘆するでありましょう。

三代の師弟は「さきがけ」の勇気で勝ちました。そして、これからも、「二陣三陣」の後継の闘魂で永遠に勝ち続けていくのです。

師弟不二なる創価の師子吼の前には、いかなる誹謗・中傷も、「風の前の塵」(御書232ページ)にすぎません。

大聖人の御在世と同じく、今、時代は乱気流の中に入っている。しかし、いかに社会が動揺していても、いな社会が動揺しているからこそ、自分の信心だけは微動だにしてはならない。

〃広布のため〃〃学会のため〃という心の操縦桿を握りしめていけば、必ず打開できる!勝利できる!こう確信して、師子奮迅の力を出し切っていくことです。

戸田先生は指導されました。

「悪口などに驚いていたら何もできません。最初から悪口を言われるのは覚悟のうえです」

古今東西の歴史を見ても先駆者には、無知や偏見による迫害はつきものです。

上行菩薩の力用がいわんや私たちは、全人類を照らす妙法を弘めている。妬まれ、圧迫されることは、経文の通り、御書の通り、我らの正義が大きく時代を動かしている証左なのであります。

さらに、広宣流布の「さきがけ」の意義を、地涌の使命という点からも拝しておきたい。

「諸法実相抄」に仰せです。

地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(御書1359ページ)

ここでも大聖人は「さきがけ」と言われています。

また、「生死一大事血脈抄」には記されております。

上行菩薩が、末法今の時にこの法門を弘めるために御出現になられることが経文に見えるが、どうであろうか。

上行菩薩が出現されているにせよ、されていないにせよ、日蓮は、その先駆けとして、ほぼ弘めだのである」(同1338ページ、通解)

上行菩薩」とは、地涌の菩薩の上首(=最高リーダー)です。

大聖人が言われる「さきがけ」とは、「上行菩薩」が末法で果たすべき使命を、事実の上で、ただ御一人だけが遂行されたという厳然たる大宣言にほかなりません。

そして、この地涌の実践を不二の弟子として継承していきなさいと命じられているのです。

「若し日蓮地涌の菩薩の数に入ろば豈に曰蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや」(同1359ページ)

大聖人の教えを信じ、広宣流布の陣列に身を役ずろ人は、全員が上行菩薩と一体で進む地涌の菩薩であるとの御断言です。

地涌の菩薩でなければ、広宣流布はできません。菩薩とは、広布のために行動する闘士の異名です。

それぞれの使命の戦線で、自分が先頭に立って、広宣の勝利のために前進しゆく皆様の生命には、「上行菩薩」の力用が、必ず漲ってくるのであります。

上行とは、優れた修行を行うという意味ですが、「上へ行く」とも読めます。もっと上ヘ!もっと高く!いかなる障壁も乗り越え、新たな勝利へ、向上し、上昇しゆく生命であります。

法難の投獄を勝ち越えて、戸田先生は綴られました。

「南無妙法蓮華経の信仰は、向上を意味する。無限の向上である」「まだまだ、その上へ、その上へと、向上して行く法である」 

ともあれ、リーダーは、自分が一人立って一切を勝ち開くのです。これが「行」です。勝ち戦のさきがけを!これこそ人生の最高の誉れであります。

十九世紀、英国の歴史家カーライルは論じている。

「人の長たる者は、人びとの先頭に立って、他のあらゆる人びとを尻ごみさせるような危険にも、すすんで立ち向かう人である」「気高い冠は、いずれもいばらの冠である」(上田和夫訳)

決然と一人立て!自分が模範と輝け!それが真の勇気です。そこに生涯の勝利の基盤が出来上がる。

大勢いるかどうかではない。

まず一人です。いさと言うときに戦えない臆病な人間が、いくら集まっても勝利はありません。

末法万年の人類を救う広宣流布を成し遂げ、世界に根本的な寄与をする〃さきがけの誇り〃に胸を張ることです。その人を、三世の十方の仏菩薩が守りに護らないわけがありません。

戦いを決するのは「真剣さ」と「粘り」です。「執念」と勇気です。絶対に勝つ!」

という「決意」と「祈り」である。「断じて勝つ!」と決めて、戦い抜いたほうが勝つ。勝つために、最大の努力を尽くし切っていくことです。