人間世紀の光 N0.193 「青年創価学会」の息吹 ㊤

人間世紀の光 N0.193 「青年創価学会」の息吹 ㊤ 



◇ 人間世紀の光 N0.193 「青年創価学会」の息吹 ㊤ 2009-7-8



若き君よ!広布の決戦場で断固勝て



新しき 広布の風を 起こしゆく 馬上豊かに 君たち走らむ



新たな夜明けは、青年の台頭が告げる。

青年が立てば、時代は変わる。青年が進めば、悪は逃げ去る。青年が勝てば、母たちは幸福に輝くのだ。

革命の闘魂の男子部も!

華陽の生命の女子部も!

先駆の英知の学生部も!

若き弟子たち若き弟子たちの溌刺たる前進は、願もしい限りだ。

これほど深き哲学を持って、気高く社会貢献に汗を流しゆく若人の大陣列が、一体いずこにあろうか!

「革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事」

これは、人材の要衝たる東京・目黒の天地に足跡を刻んだ、歌人正岡子規の言葉だ。



負けるなと 次代の君の 晴れ舞台 私が固い友情を結んだ



ローマクラブの創立者ペッチェイ博士は、地球環境の保護のために、いち早く警鐘を鳴らした賢人である。

私たちの「人間革命」の思想に、最大の賛同を寄せてくださっていた。

博士は強く叫ばれた。

今、、人類が直面している「重大な過度期を乗り切るためには、「若い世代の想像力と行動組織にもっと活動の場を与えること以外にない」と言われたのだ。

わが学会も、幾多の険難の山また山を乗り越えてきた。なかでも「重大な過渡期」の一つは、第二代会長戸田先生亡き後の二年間であったといってよい。

ここぞとばかり、世間の非難・中傷は襲いかかってきた。しかし、その暗い逆風下でも、学会は断固として大発展を続けた。

それは、見えない水面下で、恩師が残した若き分身の弟子が全学会のスクリューとなって、死に物狂いで戦っていたからだ。

学会には、青年がいるー広宣流布の全責任をを担い立つ後継の青年がいるー親愛なる同志は知っていた。いな信じていた。

そして、「若き世代」の軽やかな登場を、祈り待っていてくださったのだ。



君来たり 創価の人材 光あり



それは、ちょうど五十年前(昭和三十四年)の六月三十日のことである。学生部の結成より二周年の記念日でもあった。

前年の同じ六月三十日に、ただ一人の「総務」に就いていた私は、この日、学会の「理事」に就任したのである。そして、十一人に拡充された理事室を代表して、総務が組織部門と事務部門のすべてを統括。

推進することが決まった。

つまり、一段と責任を明確に〃執行部〃の要として、全学会の指揮を執ることになったのである。

それは、戸田先生が第代会長に就任された時に匹敵する大機構改革だった。

この時、「聖教新聞」「大白蓮華」をはじめ、出版、企画、経理など多くの部門の責任者にも、青年部出身者が抜擢された。

支部・地区でも、恩師の薫陶を受けた若武者たちの登用が進んでいった。

「次の時代は青年に!」

この恩師の念願が、一段と明確な形となり、清新な「青年創価学会」が颯爽と姿を現し始めたのである。

学生部結成の記念日は、一周年も、二周年も、私の新たな出発となり、重々の縁を感じてならない。

あの思い出深き荒川文化会館で、学生部歌「広布に走れ」を発表して、大合唱したのも、昭和五十三年の六月三十日のことであった。地元・荒川の友の誇り高き顔が、私の心に光って離れない。

ーなお、師弟の言論誌「大白蓮華」は、この七月で創刊六十周年の佳節を刻んだ。世界の識者も注目し、賞賛する論陣が嬉しい。



大東京 君よ走れや 指揮とれや ああ百万の 歓喜のうねりを



戸田先生の心を心とし、一切の勝利の力用を青年が双肩に担い立って、怒涛の大前進が開始されたのだ。

この昭和三十四年六月の大機構改革と同時に、組織の一番の柱である支部の充実・発展が図られ、新たに十六支部が誕生した。

〃庶民の英雄〃と輝く荒川支部や、〃信心一筋〃の魂を継ぐ世田谷支部、そして〃豊島の勝利城〃池袋支部が発足したのも、この時である。

また、板橋、江東、葛飾、大田、渋谷、そして横浜、京浜、杉戸、船橋、さらに関西の京洛、平安、東北の宮城、北上の各支部も生まれた。本年で記念すべき結成五十周年である。

若々しい息吹はすべてを新鮮にする。新勢力の勃興に、蒲田、足立、中野、小岩、向島、杉並、文京等の伝統の支部も、大宮等の中堅の支部も、奮い立って、心新たに船出した。

特に新設支部のうち十二支部は首都圏であった。さらに北多摩や町田など、現在の第二総東京の新天地も輝きを放ち始めていた。



万歳の 波をつくれや 君立ちて



五十年前は、広宣流布の会館も少なかった。師弟の縁も深き豊島公会堂をはじめ、各地の体育館等を借りて活発に大会が行われた。

青年部の役員が真剣に絶対無事故の運営に臨んだ。

創価班。牙城会、そして、7・8〃グループの日〃を迎えた白蓮グループ等の尊き友が受け継いでくれている「学会厳護」「会員厳護」の心である。

全軍の牽引とともに、私はさらなる高みを見つめ、次の勝利への基盤を、深く強く打ち込んでいった。

「三百万世帯の成就」「世界広宣流布」という恩師に捧げた誓願が、瞬時も胸を離れなかったからだ。

理事に就任直後の七月、私は全同志に叫んだ。

「戸田先生の時代に還れ」

ーこれが、新時代の旭日を昇らせゆくための、私の結論であった。先生の魂を凝結させ、私は特に三点にわたって、新たな波動を起こしていったのである。

師弟不二たれ!

異体同心たれ!

絶対勝利たれ!ーと。



師弟不二 広宣流布の 誉れの同志



第一の波動ーそれは、「師弟不二」である。

「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり」(御書九○○ページ)

仏法の極意である師弟の哲理を貫き通せば、学会は永遠に勝ち栄えていける。

「いよいよ強盛な信心をせよ!」ーレコードから流れる戸田先生の師子吼を、理事室の皆と幾度も聞いた。聞くたびに満々たる勇気が湧いた。

「確信のあるところには、おのずから情熱が湧く」

先生の残してくださったご指導の通りだ。

師の開拓精神!

師の建設精神!

師の破折精神!

恩師の思考は、常に新しく未来へと向かっていた。

私は、いかなる会合でも恩師の教えを叫び続けた。

私の身体の、どこを切っても、戸田先生の広布一徹の熱き血潮が流れている。

先生が「戸田の命より大事」と言われた学会の組織の隅々に、恩師の血流を通わせるのだと必死だった。

残念ながら、峻厳な師の心を忘れ、慢心になり、向上心を失って惰眠を貪る幹部もいた。

その姿は、大聖人御在世に、「日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべし」(同九六一ページ)と退転した、

増上慢の弟子の如くであった。

私は、誠烈なる青年群を中心に、学会のど真ん中に、目の覚めるような師弟の魂を据えていったのだ。

大二の波動。それは、「異体同心」の団結である。

御金言には仰せである。

「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思いを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」

「若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(同一三三七ページ)

この大聖人に直結して、広宣流布へ邁進しゆく同志の結合は、わが学会の他には、どこにもない。あの友の勝利も、この地の栄光も、「自他彼此の心なく」祈りゆく、異体同心の極致の団結が、我らにはある。

ゆえに「生死一大事の血脈」が脈々と流れ通うのだ。 その要諦は、御書根本の教学であり信心である。

私は、昭和三十四年後半だけでも、福岡、岡山、大坂、静岡、名古屋、岐阜、尼崎、横浜などを駆けめぐり、御書講義を行った。

青年部には「心の財第一なり」(同二七三ページ)の御精神を訴えた。

毀誉褒貶に流され、名聞名利に狂い、信念を捨て、同志を裏切る浅ましい邪道だけは歩んではならない。

どんなに自身を正当化しようとも、「万歳悔ゆる」人生となってしまうからだ。

私は、一生涯、健気な庶民と苦楽を共にし、「心の財」の和合を護り抜くことを、若き友と固く約していったのである。(㊦は明日付に掲載)



正岡子規の言葉は『病牀六尺』(岩波書店)。ペッチエイは『未来のための100ページ』大来佐武郎監訳・読売新聞外報都訳(読売薪聞社)。