随筆 人間世紀の光 No.198 永遠の同志・大関西㊤㊦ 2009-8-15/16

随筆 人間世紀の光 NO.198  師弟共戦の8月 ㊤ 2009-8-6



仏法は勝負! 決戦場に勇み立て

黄金の「今 この時」を 君よ悔いなく



 関西と   いえば常勝   晴ればれと



 希望の未来へ、溌剌と若木が伸びる夏。嬉しいニュースが飛び込んできた。

 関西創価高校のダンス部が日本一の「文部科学大臣賞」に輝いた。さらに箏曲部も「文化庁長官賞」を受賞したのである。

 2カ月前、私は、この学園生たちと会った。6月18日、関西創価高校2年生が創価大学で研修していると聞き、駆けつけたのだ。

 学園生たちは、はち切れんばかりの勢いで「外国語を習得します」「世界一の教育者になります」等と決意を語ってくれた。ダンス部や箏曲部など、各クラブのメンバーたちも、勝利への抱負を聞かせてくれた。

 誓いを立て、汗を流して努力し、持てる力を出し切る。そして勝つ。これほど痛快なことはない。

 わが学園生は、この「負けじ魂」を父母の後ろ姿から、学びとっているのだ。

 私は「頑張れ!」とエールを送りつつ、「お父さん、お母さんを大切に!」と、声を大に呼びかけた。

 後継の友の成長こそ、関西そして全国の父母の喜びである。私の誇りである。

 人生の土台となる青春期は、懸命に戦った全員が勝利者だ。私は、いつも皆の前進を祈り、待っている。

        

 栄光の   帝王 われと  指揮高く  逆巻く海をば 無敵の舵とれ



 関西創価学園が立つ交野は、“万葉”の詩情を今に伝える天地だ。

 5世紀ごろから8世紀半ばの歌を収めた『万葉集』。その中に現れる地名の一つに、「住吉《すみのえ》」(後に「すみよし」)がある。

これは、現在の大阪市住吉区住之江区の付近を指す。往時は「白砂青松《はくしゃせいしょう》」の美しき海岸が広がっていた。「すみのえ」の音には「清江」とも当てられる。

 ここには「住吉津《すみのえつ》」と呼ばれる港があった。古代中国への使節は、ここから出発していったという説もある。世界と日本を結ぶ、国際港の「先駆」であった。

 私も訪れ、その歴史薫る風情に感じ入った一人だ。

 今や「世界の大関西」と謳われゆく、わが友の大行進を、先人たちも誇らしく見つめているに違いない。

 奇しくも、この西大阪の地域は、わが関西創価学会の発祥の大地でもある。

 大阪の初代支部長・白木義一郎さんの折伏の第1号は、西成区で決まった。

 さらに、戸田先生と私が師弟して臨んだ最初の関西の座談会は、昭和27年の8月16日、大正区で行われたのである。

 先生は厳と語られた。

 「私が関西に来たのは、貧乏人と病人をなくすためです!」

 師の構想を実現するのが弟子だ。ゆえに私は、この師の誓願をわが誓願とし、関西を走り抜いてきた。

 この西大阪は、大楠公楠木正成《まさしげ》が痛快な勝利の足跡を残した地でもある。

 「合戦の勝負、必ずしも大勢《おおぜい》・小勢《こぜい》に依らず。ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり」と正成が語ったのも、この折であった。

 勝負を決するのは、人数の多い少ないではなく、心を一つにする団結であるというのである。

 さらに正成の遺子・楠木正行《まさつら》が「早く生い立て」との厳父の祈りに応えて、宿敵を打ち破ったのも、この地の合戦であった。

 昭和60年の1月25日、私は西大阪文化会館(現・住之江文化会館)を訪問した。「大阪事件」の無罪判決から23年の日である。この日は「関西婦人部の日」となった。

 私は、瞬時にして心が通い合う同志に訴えた。

 「仏法は勝負!」

 広宣流布のためには、戦わなければならない。

 臆病に退いてしまえば、魔軍が増長するだけだ。

 戦うなら勝つしかない。

 正行の如く、後継の証明は勝利のみである。

 英国の作家シェークスピアの劇中の人物は誓う。

 「どんな恐ろしい困難とでも私は闘います。いや、必ず克ってみせます」

 大事なのは、この断固たる気概である。

        

 慶応義塾大学の創立者である福沢諭吉先生も、現在の大阪市福島区の生まれだ。青春の薫陶を、大阪の適塾で、師匠・緒方洪庵から受けた。

 福沢先生は、その師匠への感謝を生涯、堅持した。晩年、自らの全集の冒頭に綴った言葉が、清々しい。

 「今日に至る迄 無窮の師恩を拝する者なり」

 ──今日に至るまで、無限の師匠の恩を慎んで受け、深く尊ぶものであると。

 人間は、師恩に応えゆかんとする時、最も尊貴にして、最も強靭なる生命の光を発するのだ。

 我らの大関西の強さも、ここにある。

      

 大兵庫   広布の白馬に    君乗りて  勝ち抜け 勝ち抜け    勝ちまくれ



 大阪の住吉津から湾を隔てた兵庫には「大輪田泊《おおわだのとまり》」ができた。それが、憧れの神戸市兵庫区の港である。

 12世紀、平清盛がこの港を大修築した。鎌倉時代には、宋との貿易で大いに栄えている。

 兵庫区や長田《ながた》区、北区の地域は、古来、幾多の武将が駆け抜けてきた。三区が連接する付近には“鵯越《ひよどりごえ》”(兵庫区)、“ひよどり”(北区)、“源平” (長田区)等を冠した地名がある。

 花の若武者・源義経が台頭した「一ノ谷の戦い」。そこで見せた奇襲「鵯越の逆落とし」に縁があるとされる名勝負の舞台だ。

 義経は岩がむき出しの絶壁を前に案内者へ尋ねた。

 「ここから平家の城郭一ノ谷《いちのたに》へ馬でかけ下《お》りようと思うがどうか」

 「人の通れる所ではありません。まして御馬《おうま》などは思いもよりません」と言下に否定される。

 だが、「鹿は通るか」と聞くと、「鹿は通ります」との答えが返ってきた。

 義経は決断した。

 「義経を手本にせよ!」

 自ら先頭で、断崖へ飛び込む。決死の奇襲戦が、迎え撃つ平氏を敗走させた。

 率先垂範の果断と勇気、勝機を逃さず壁を破る突破力、そして逡巡せぬ魂が、逆境をはね返すのだ。

 御聖訓には、広宣流布の攻防戦に際して、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451㌻)と仰せである。そして「名を揚るか名をくだすかなり」(同㌻)と強調なされている。

 「今この時」に、死力を尽くして悔いなく戦い切ることだ。その名が、後世に「広宣流布の闘士の鑑」として輝いていくのである。

 大聖人は「皆 我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(同383㌻)と教えてくださった。

 信心の上で苦労したことは全部、大福運に変わる。

 関西で命を賭して戦い切った私が、その証明だ。

 私と一緒に戦い抜いてくれた、関西の父母の大福の実証を見給え!

 「ひとつ勇気を出されたがよい、後世の人も褒めてくれるよう」とは、ホメロスの大叙事詩オデュッセイアー』に記された一節だ。

 昭和39年の9月13日、神戸市長田区の育英高校で、今も歴史に光る兵庫総合本部の結成大会が行われた。

 私は、昭和31年の「大阪の戦い」を振り返り、真情を語った。

 「祈りとして叶わざるなしである。私は長として、御本尊に願い切っていこう、働き切っていこう、会員のために勝ち切っていこう、この決心だった」

 いかなる戦いも「長の一念」で決まる。リーダーは、同志を勝たせゆく重大な責務を担っているのだ。

 今、大関西の勇将たちが、なかでも壮年部の盟友たちが、私と同じ決意で、同志のため、地域のため、社会のために、粉骨砕身、戦ってくれている。

 ともあれ、関西の永遠の同志が健在ならば、断固と勝っていける。これが創価の勝ち戦のリズムだ。



 「住吉津」の話は大阪府史編集専門委員会編『大阪府史2』(大阪府)、楠木正成は佐藤和彦編『楠木正成のすべて』(新人物往来社)、源義経は杉本圭三郎訳注『平家物語9』(講談社)などを参照。シェークスピアの言葉は『ジュリアス・シーザ』中野好夫訳(岩波書店)。福沢諭吉は『福澤諭吉全集1』(岩波書店)。ホメロスは『オデュツセイアー』呉茂一訳(岩波書店)。