随筆 人間世紀の光 No.198 永遠の同志・大関西㊤㊥㊦ 2009-8-15/16
永遠の同志・大関西㊥ 2009-8-16
世界に轟け! 正義の師子吼
わが民衆の大行進を 諸天が守らむ
「常勝」は師弟不二の宝冠なり
「勇気」の将軍学で「死闘」を競り勝て!
おお 堺! 会えば瞳が 輝きて 明るい久遠の 楽しき同志と
「永遠に栄えゆく堺たれ」──聖教新聞一面に、八段の大見出しが躍った。
昭和43年の10月4日、私は、大阪府堺市の金岡《かなおか》体育館での堺本部幹部会に出席した。その時の躍動を報じた記事である。
堺の名は、摂津、河内、和泉の三国の「境」に由来するという。まさに、活発な往来の要衝であった。
昭和31年の「大阪の戦い」でも、華々しい結果を示したのが、大和川以南の地域──堺支部たった。
堺の大発展を念願しつつ、私は「栄える」堺にと申し上げたのである。
私が初めて大阪の土を踏んで、最初に参加した会合も、堺の座談会だった(昭和27年8月14日)。
それぞれの経済苦や病苦を、いかに打開するかを、真剣に語るとともに、私は世界広布のロマンを展望した。それは世界に開かれた堺の栄光の歴史を踏まえてのことであった。
かつて堺は「東洋のべ二ス」と呼ばれるほど、世界に名を馳せ、高度な自治で町人文化が花咲いた。
その一つが、千利休が大成させた茶道である。
千利休は、19歳の頃、武野紹鴎《たけのじょうおう》に師事し、師弟の精神を貫き通した。
私も、19歳で出会った師匠の心に応えて戦った。
その最高の証こそ、庶民の錦州城・大関西である。
利休の晩年、側にいた弟子の山上宗二《やまのうえそうじ》が、茶の「名人」の条件の一つとして、三箇条をあげている。
それは「胸の覚悟」「作分《さくぶん》」「手柄」である。
「胸の覚悟」とは、心の持ち方、心掛けである。「一期一会」の精神も、その一つだ。すなわち一回一回の出会いが一生に一度限りであると、心を定めることだ。
「作分」とは創意工夫。「手柄」とは実績である。
これは、創価の対話の達人たちにも通じよう。
まず、誓願、決意という学会精神である。
次に、創造的な息吹で、智慧を湧かし、自ら戦いを起こすことだ。
そして、勝利の実証を厳然と残しゆくことである。
大関西 連戦常勝 祈るらむ 師弟の魂 いやまし燃やして
昭和32年7月。「大阪事件」で私が入獄した月、戸田先生は言われた。
「関西は、大作と一体不二だ。大作と一緒に、大難に立ち向かい、戦い抜いてきた。だから強いぞ」
「関西には爆発するような勢いが渦巻いている。関西さえ盤石ならば、学会は巌窟王の如く、50年先、100年先も勝ちまくれる」
先生は、私と関西の結合に、広布の命脈を託された。その上で迎えたのが大阪事件の裁判闘争だった。
弁護士でさえ「有罪を覚悟」と言った。確かに刑事事件の有罪率は99㌫を超える。
しかし私は、日蓮門下として、「世間の失一分もなし」(御書958㌻)との決定《けつじょう》した闘魂に燃えていた。
法華経に説かれる僣聖増上慢が出来し、学会に恐れをなした権力の魔性が牙を剥いてきたのだ。
戸田先生の直弟子として、断じて負けるわけにはいかない。
師匠の仇討ちを!
大聖人 褒めなむ 讃えむ 尼崎 広布の原点 正義の集いよ
大阪事件の審理は、4年半にわたった。その期間、私がよく通ったのが、兵庫の尼崎だったのである。
兵庫は「兵《へい》の庫《くら》」だ。雄々しき戦士の宝庫だ。兵庫が勝てば、関西が勝つ。関西が勝てば、全国が完勝する。
尼崎は、その関西の電源地であり、学会の心臓部であるからだ。
歴史を振り返れば、徳川家康も幕府を開いた後、関西への布石として、いち早く尼崎に手を打った。尼崎こそ急所なりと、家康も知悉していたのである。
私は関西の幹部会、御書講義のために、何度も足を運んだ。尼崎会館のオープンも祝福した。
大阪事件の最終陳述の日を迎えた昭和36年の12月16日、私は、証言台から師子吼した。
「私たちの行動は、憲法に保障された国民の権利である!」──検察側の偏見を真正面から突き、最後に師・戸田先生に思いを馳せ、話を結んだのである。
大阪拘置所から出た時に、先生は私に言われた。
「いいじゃないか、裁判があるではないか。裁判長はわかるはずだ。裁判長に真実がわかってもらえればいいではないか」
この師弟の劇を、私は、自身の最終陳述で語ったのであった。
私は会長となっていた。後を継いだ者として、戦時中、同じく無実で獄に囚われた牧口先生、戸田先生の無念を晴らすしかない。
師匠の仇討ちのために何があっでも勝つのだ!
我らは師子だ。師と弟子が一体不二で邪悪を破り、正義を轟かせるのだ!
この一念深き「祈り」と「雄弁」と「行動」が、諸天善神を揺り動かした。
翌年1月、尼崎で行った関西男子部幹部会の翌日。私は晴れて無罪判決を受けたのである。
さらに1年後の昭和38年の2月、尼崎で関西初の婦人部幹部会が開催されると、私は心から祝福した。丑寅勤行まで重ねて、最も深く私の無罪を祈ってくださった母たちである。
「いかなる状況になろうと、金剛不壊の自分自身を築こう!」と訴えた。
母が不動の信念であれば一家は安泰である。学会の前進も揺るぎない。
思えば、長編詩「母」を発表したのも、昭和46年の10月、東淀川で行われた関西婦人部幹部会であった。
「闇を貫き、圧倒できるのは、太陽だけである」
こう歌ったのは、南米アルゼンチンの民衆詩人ホセ・エルナンデスである。
どんな深い闇も、底抜けに明るい笑顔で打ち破ってくれる関西の母たちこそ、世界第一の「常勝の太陽」なのである。
淀川に 元初の姉妹の 集いたる 錦州城は 無限に にぎやか
関西を潤す母なる大河が淀川である。
江戸期、この淀川流域には豊かな田んぼが広がっていたが、排水路の不備から大雨のたびに被害を受けていた。そこで立ち上がったのが、農民たちであった。
苦境の打開へ、自ら排水路の開削に着手したのだ。彼らは、いかなる困難にも屈せず、決死の覚悟で開削工事を敢行し、最後は幕府の支援も勝ち取った。
こうして、今の東淀川から淀川、西淀川を経て此花の地に至る一帯に築かれたのが、中島大水道である。ここには、人びとのために、命がけで政治を動かした庶民の歴史が輝いている。
現場へ最前線へ!
昭和36年の9月、私は裁判の公判前の時間を縫って、第二室戸台風の被災地・西淀川へ駆けつけた。
この2年前の10月にも、私は、伊勢湾台風で被災した愛知と三重へ急行した。一旦緩急あれば最前線へ飛び込むのが、リーダーだからである。
ともあれ、「大悪をこ(起)れば大善きたる」(御書1300㌻)とは、日蓮仏法の不屈の大確信だ。
昭和38年4月6日、私は西淀川会館(現・西淀川文化会館)の入仏式で語った。
「関西の10年の戦いは、広宣流布のために、民衆救済に戦ってきた苦闘の歴史だった。誹謗・中傷もされた。しかし、今日の学会は、大きく民衆が認めるところとなったのです!」
西淀川はじめ東淀川、淀川の友が場外にあふれた。せめてもと、2階からも激励させていただいた。
大阪市内で、関西本部に次ぐ会館であった。
此花や福島の友も、淀川を渡って通い、どれほど深い真心で会館を厳護してくださったことか。私も妻も、よく存じ上げている。
昭和44年9月4日には、東淀川会館(当時)を訪問し、清掃に当たってくださっていた婦人と、懇談のひと時をもうけた。
関西の玄関口・新大阪駅に近い新大阪文化会館には、5回の訪問を重ねた。移動の合間で、長い滞在はできなかったことも多い。
だが、一分一秒でも一人を励ませる。歓喜が千波万波と広がる。ゆえに、今の一瞬に全力を注ぐのだ!
私が一期一会で駆け抜けたのが新大阪地域である。この地の友に私は贈った。
「戦う人は諸天の力が増す。勝ちゆく人は諸仏の満足がある」
いついつも 師弟の関西 勝ち飾る 皆様方の 勇気 嬉しや
「永遠の都」ローマで活躍した常勝の大英雄がジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)である。
シーザーは、歴史に燦たる名将であるゆえに、あらゆる戦いを悠々と勝ったように思われるかも知れない。だが、実像は決してそうではないのだ。
勝つか負けるか、全くわからない、困難な戦いの連続だったのである。
関西の戦いも、同じだ。
「常勝」とは常に「死闘」に競り勝つことである。
その大激戦を勝ち抜く原動力は、いったい何か。
シーザーは、乱戦になればなるほど、「勇気」のいかんで勝負は決まると確信していた。
たとえ、相手が「数」を頼みに襲いかかってこようとも、我々は自分たちの「勇気」に対して、自信と誇りをもって戦うのだ。そうすれば、禍を転じて福となすことができる!
これが、シーザーの「将軍学」であった。
関西も、ただただ師弟の「勇戦」によって、一切を勝ち越えてきたのだ。
受け身になるな!
シーザーが、戦いに臨んで大切にした伝統がある。
それは声を出すことだ。
声を出すことによって、「敵を畏怖せしめると共に味方を奮いたたせる」。
この声の力を、シーザーは武器としたのである。
とともに彼は、「相手の優勢を恐れないこと、迅速に行動すること、これしかない」とも語る。「迅速」と「勢い」だ。
紀元前48年の8月、シーザーは、ポンペイウスの軍勢との天下分け目の決戦に挑んだ。有名な「ファルサロスの戦い」である。
ポンペイウス軍は、5万4000。これに対して、シーザーの軍勢は、2万3000。半分以下の劣勢であった。
しかし、戦いには、シーザーが大勝利した。
なぜか。その要因の一つは、シーザーの陣列は攻め抜いた。相手は、その攻撃を待ち受ける態勢をとったからである。彼は語った。
「突撃した方の力がまさり、その方の力が、本来の力の二倍にも三倍にもなる」
受け身にはなるな!
勇猛なる心で攻め抜け!
これは、人生の万般に通ずる勝利の鉄則である。
さらに、シーザーが立ち向かったポンペイウス陣営は、人数は多かったが、重要な役割を担う騎兵は、身分が高く、見栄っ張りが多かったと指摘される。
彼らは、貴公子気取りで、わが身と乗る馬を飾り立てて、壮絶な戦場を甘く見て臨んでいた。
そして、戦いが始まると、我が身や顔を傷つけられることを恐れて、たちまち逃げ出したというのだ。
いかなる戦いも、見栄や気取りなど、かなぐり捨てて、一心不乱に最後まで力を出し尽くした方が勝つ。
これが、庶民の強さであり、関西の強さである。
関西は、この人間の大英雄の底力で、これからも、断固として勝ち抜くのだ。
そして民衆が胸を張り、平和と繁栄を謳歌していく「永遠常勝の都」を築き上げていくのだ。
世界に轟け! 正義の師子吼
わが民衆の大行進を 諸天が守らむ
「常勝」は師弟不二の宝冠なり
「勇気」の将軍学で「死闘」を競り勝て!
おお 堺! 会えば瞳が 輝きて 明るい久遠の 楽しき同志と
「永遠に栄えゆく堺たれ」──聖教新聞一面に、八段の大見出しが躍った。
昭和43年の10月4日、私は、大阪府堺市の金岡《かなおか》体育館での堺本部幹部会に出席した。その時の躍動を報じた記事である。
堺の名は、摂津、河内、和泉の三国の「境」に由来するという。まさに、活発な往来の要衝であった。
昭和31年の「大阪の戦い」でも、華々しい結果を示したのが、大和川以南の地域──堺支部たった。
堺の大発展を念願しつつ、私は「栄える」堺にと申し上げたのである。
私が初めて大阪の土を踏んで、最初に参加した会合も、堺の座談会だった(昭和27年8月14日)。
それぞれの経済苦や病苦を、いかに打開するかを、真剣に語るとともに、私は世界広布のロマンを展望した。それは世界に開かれた堺の栄光の歴史を踏まえてのことであった。
かつて堺は「東洋のべ二ス」と呼ばれるほど、世界に名を馳せ、高度な自治で町人文化が花咲いた。
その一つが、千利休が大成させた茶道である。
千利休は、19歳の頃、武野紹鴎《たけのじょうおう》に師事し、師弟の精神を貫き通した。
私も、19歳で出会った師匠の心に応えて戦った。
その最高の証こそ、庶民の錦州城・大関西である。
利休の晩年、側にいた弟子の山上宗二《やまのうえそうじ》が、茶の「名人」の条件の一つとして、三箇条をあげている。
それは「胸の覚悟」「作分《さくぶん》」「手柄」である。
「胸の覚悟」とは、心の持ち方、心掛けである。「一期一会」の精神も、その一つだ。すなわち一回一回の出会いが一生に一度限りであると、心を定めることだ。
「作分」とは創意工夫。「手柄」とは実績である。
これは、創価の対話の達人たちにも通じよう。
まず、誓願、決意という学会精神である。
次に、創造的な息吹で、智慧を湧かし、自ら戦いを起こすことだ。
そして、勝利の実証を厳然と残しゆくことである。
大関西 連戦常勝 祈るらむ 師弟の魂 いやまし燃やして
昭和32年7月。「大阪事件」で私が入獄した月、戸田先生は言われた。
「関西は、大作と一体不二だ。大作と一緒に、大難に立ち向かい、戦い抜いてきた。だから強いぞ」
「関西には爆発するような勢いが渦巻いている。関西さえ盤石ならば、学会は巌窟王の如く、50年先、100年先も勝ちまくれる」
先生は、私と関西の結合に、広布の命脈を託された。その上で迎えたのが大阪事件の裁判闘争だった。
弁護士でさえ「有罪を覚悟」と言った。確かに刑事事件の有罪率は99㌫を超える。
しかし私は、日蓮門下として、「世間の失一分もなし」(御書958㌻)との決定《けつじょう》した闘魂に燃えていた。
法華経に説かれる僣聖増上慢が出来し、学会に恐れをなした権力の魔性が牙を剥いてきたのだ。
戸田先生の直弟子として、断じて負けるわけにはいかない。
師匠の仇討ちを!
大聖人 褒めなむ 讃えむ 尼崎 広布の原点 正義の集いよ
大阪事件の審理は、4年半にわたった。その期間、私がよく通ったのが、兵庫の尼崎だったのである。
兵庫は「兵《へい》の庫《くら》」だ。雄々しき戦士の宝庫だ。兵庫が勝てば、関西が勝つ。関西が勝てば、全国が完勝する。
尼崎は、その関西の電源地であり、学会の心臓部であるからだ。
歴史を振り返れば、徳川家康も幕府を開いた後、関西への布石として、いち早く尼崎に手を打った。尼崎こそ急所なりと、家康も知悉していたのである。
私は関西の幹部会、御書講義のために、何度も足を運んだ。尼崎会館のオープンも祝福した。
大阪事件の最終陳述の日を迎えた昭和36年の12月16日、私は、証言台から師子吼した。
「私たちの行動は、憲法に保障された国民の権利である!」──検察側の偏見を真正面から突き、最後に師・戸田先生に思いを馳せ、話を結んだのである。
大阪拘置所から出た時に、先生は私に言われた。
「いいじゃないか、裁判があるではないか。裁判長はわかるはずだ。裁判長に真実がわかってもらえればいいではないか」
この師弟の劇を、私は、自身の最終陳述で語ったのであった。
私は会長となっていた。後を継いだ者として、戦時中、同じく無実で獄に囚われた牧口先生、戸田先生の無念を晴らすしかない。
師匠の仇討ちのために何があっでも勝つのだ!
我らは師子だ。師と弟子が一体不二で邪悪を破り、正義を轟かせるのだ!
この一念深き「祈り」と「雄弁」と「行動」が、諸天善神を揺り動かした。
翌年1月、尼崎で行った関西男子部幹部会の翌日。私は晴れて無罪判決を受けたのである。
さらに1年後の昭和38年の2月、尼崎で関西初の婦人部幹部会が開催されると、私は心から祝福した。丑寅勤行まで重ねて、最も深く私の無罪を祈ってくださった母たちである。
「いかなる状況になろうと、金剛不壊の自分自身を築こう!」と訴えた。
母が不動の信念であれば一家は安泰である。学会の前進も揺るぎない。
思えば、長編詩「母」を発表したのも、昭和46年の10月、東淀川で行われた関西婦人部幹部会であった。
「闇を貫き、圧倒できるのは、太陽だけである」
こう歌ったのは、南米アルゼンチンの民衆詩人ホセ・エルナンデスである。
どんな深い闇も、底抜けに明るい笑顔で打ち破ってくれる関西の母たちこそ、世界第一の「常勝の太陽」なのである。
淀川に 元初の姉妹の 集いたる 錦州城は 無限に にぎやか
関西を潤す母なる大河が淀川である。
江戸期、この淀川流域には豊かな田んぼが広がっていたが、排水路の不備から大雨のたびに被害を受けていた。そこで立ち上がったのが、農民たちであった。
苦境の打開へ、自ら排水路の開削に着手したのだ。彼らは、いかなる困難にも屈せず、決死の覚悟で開削工事を敢行し、最後は幕府の支援も勝ち取った。
こうして、今の東淀川から淀川、西淀川を経て此花の地に至る一帯に築かれたのが、中島大水道である。ここには、人びとのために、命がけで政治を動かした庶民の歴史が輝いている。
現場へ最前線へ!
昭和36年の9月、私は裁判の公判前の時間を縫って、第二室戸台風の被災地・西淀川へ駆けつけた。
この2年前の10月にも、私は、伊勢湾台風で被災した愛知と三重へ急行した。一旦緩急あれば最前線へ飛び込むのが、リーダーだからである。
ともあれ、「大悪をこ(起)れば大善きたる」(御書1300㌻)とは、日蓮仏法の不屈の大確信だ。
昭和38年4月6日、私は西淀川会館(現・西淀川文化会館)の入仏式で語った。
「関西の10年の戦いは、広宣流布のために、民衆救済に戦ってきた苦闘の歴史だった。誹謗・中傷もされた。しかし、今日の学会は、大きく民衆が認めるところとなったのです!」
西淀川はじめ東淀川、淀川の友が場外にあふれた。せめてもと、2階からも激励させていただいた。
大阪市内で、関西本部に次ぐ会館であった。
此花や福島の友も、淀川を渡って通い、どれほど深い真心で会館を厳護してくださったことか。私も妻も、よく存じ上げている。
昭和44年9月4日には、東淀川会館(当時)を訪問し、清掃に当たってくださっていた婦人と、懇談のひと時をもうけた。
関西の玄関口・新大阪駅に近い新大阪文化会館には、5回の訪問を重ねた。移動の合間で、長い滞在はできなかったことも多い。
だが、一分一秒でも一人を励ませる。歓喜が千波万波と広がる。ゆえに、今の一瞬に全力を注ぐのだ!
私が一期一会で駆け抜けたのが新大阪地域である。この地の友に私は贈った。
「戦う人は諸天の力が増す。勝ちゆく人は諸仏の満足がある」
いついつも 師弟の関西 勝ち飾る 皆様方の 勇気 嬉しや
「永遠の都」ローマで活躍した常勝の大英雄がジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)である。
シーザーは、歴史に燦たる名将であるゆえに、あらゆる戦いを悠々と勝ったように思われるかも知れない。だが、実像は決してそうではないのだ。
勝つか負けるか、全くわからない、困難な戦いの連続だったのである。
関西の戦いも、同じだ。
「常勝」とは常に「死闘」に競り勝つことである。
その大激戦を勝ち抜く原動力は、いったい何か。
シーザーは、乱戦になればなるほど、「勇気」のいかんで勝負は決まると確信していた。
たとえ、相手が「数」を頼みに襲いかかってこようとも、我々は自分たちの「勇気」に対して、自信と誇りをもって戦うのだ。そうすれば、禍を転じて福となすことができる!
これが、シーザーの「将軍学」であった。
関西も、ただただ師弟の「勇戦」によって、一切を勝ち越えてきたのだ。
受け身になるな!
シーザーが、戦いに臨んで大切にした伝統がある。
それは声を出すことだ。
声を出すことによって、「敵を畏怖せしめると共に味方を奮いたたせる」。
この声の力を、シーザーは武器としたのである。
とともに彼は、「相手の優勢を恐れないこと、迅速に行動すること、これしかない」とも語る。「迅速」と「勢い」だ。
紀元前48年の8月、シーザーは、ポンペイウスの軍勢との天下分け目の決戦に挑んだ。有名な「ファルサロスの戦い」である。
ポンペイウス軍は、5万4000。これに対して、シーザーの軍勢は、2万3000。半分以下の劣勢であった。
しかし、戦いには、シーザーが大勝利した。
なぜか。その要因の一つは、シーザーの陣列は攻め抜いた。相手は、その攻撃を待ち受ける態勢をとったからである。彼は語った。
「突撃した方の力がまさり、その方の力が、本来の力の二倍にも三倍にもなる」
受け身にはなるな!
勇猛なる心で攻め抜け!
これは、人生の万般に通ずる勝利の鉄則である。
さらに、シーザーが立ち向かったポンペイウス陣営は、人数は多かったが、重要な役割を担う騎兵は、身分が高く、見栄っ張りが多かったと指摘される。
彼らは、貴公子気取りで、わが身と乗る馬を飾り立てて、壮絶な戦場を甘く見て臨んでいた。
そして、戦いが始まると、我が身や顔を傷つけられることを恐れて、たちまち逃げ出したというのだ。
いかなる戦いも、見栄や気取りなど、かなぐり捨てて、一心不乱に最後まで力を出し尽くした方が勝つ。
これが、庶民の強さであり、関西の強さである。
関西は、この人間の大英雄の底力で、これからも、断固として勝ち抜くのだ。
そして民衆が胸を張り、平和と繁栄を謳歌していく「永遠常勝の都」を築き上げていくのだ。