第35回 「SGIの日」記念提言  上・下  2010-1-26・27

 第35回「SGIの日」記念提言 「新たなる価値創造の時代へ ㊥ 2010-1-26
宗教のハンドルとブレーキの役割

さて、近代文明発展の最大の推進力、駆動力となったのが、いうまでもなく科学技術でした。

その科学者の立場から、宗教とくに仏教との接点を探り続けてきた泉美治氏は、こう述べています。「人類は欲望というアクセルによって知能というエンジンを動かし、宗教というハンドルとブレーキによって安定した生活を求めてきました」(『科学者が問う来世はあるか』人文書院)と。

この比喩を借りれば、近代文明、とりわけ近代資本主義というシステムは、例えばマックス・ウェーバーが分析したように、ブロテスタンテイズムの倫理というブレーキとハンドルが作動することによって、辛うじて欲望が制御され、安定した人間生活を保障してきた。

換言すれば、何のための勤勉か、何のための努力か、蓄財か、といつ価値観からの問いかけが日常的になされていた。それによって、人間精神、人間生活のバランスが保たれてきました。

ハンドルやブレーキが機能不全に陥ったらどうなるか-ウェーバーの言う「心情のない享楽人」(『ブロテスタンテイズムの倫理資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波書店)の横行であり、昨今指弾されている「強欲資本主義」などは、その末期症状といってよい。

欲望や知能の独り歩きであり、そういえば、今回の金融危機を招いた信用バブルの背景には、投機性を至上視したデリバティブ(金融派生商品)市場の拡大などがあり、その開発には最先端の金融工学が駆使されていたという。金融市場のカジノ化に熱中した人たちの脳裏に、果たして「何のため」という問いが浮かんだでしょうか。



「何のため」を忘れた欲望の肥大化が経済や科学技術の暴走を招く温床に

真の宗教にはニヒリズムを破り精神を蘇生させる根源の力が



とりわけ、知能すなわち科学技術というエンジンの暴走は、放置しておけば、人類の命運にさえかかわってきます。

20世紀に入って大きく揺らいでいた歴史の進歩という観念を破砕して”ヒロシマ”の悲劇を現出した核技術の悪夢は、飽くなき欲望(仏法的にいえば修羅の生命の限りなき増長)と先端技術がセットになった独り歩きが、いかに危険極まりないかということを、白日の下にさらしました。

ジョセフ・ロートブラット博士が、私との対談集(『地球平和への探求』潮出版社)で、原爆投下を耳にした時の心境を「絶望」の二字で表していたように、それは人類の前途に価値観の崩壊、ニヒリズムの暗雲を重く垂れ込めさせました。

さらに、ニヒリズムという観点から見逃してならないのは、ある種の突出したバイオテクノロジー、例えば生殖系遺伝子操作=注2=などの行き過ぎ、独り歩きの危険性であります。

それは、フランシス・フクヤマ氏の著作『人間の終わり』や、ビル・マッキベン氏の著作『人間の終焉』が警告するように、人類が数千年にわたって蓄積してきた道徳や宗教、文化、芸術などの精神的道産を根こそぎにし、無価値化させる「人間後」(ポスト・ヒューマン)の時代を、SFの世界ではなく、現実のものとしかねない。

特に遺伝子操作のような技術は、人間のエゴイズムを巧妙に取り込みながら知らず知らずのうちに、気づいてみると取り返しのつかないところまで事態を進行させてしまう恐れさえあります。

その意味から核技術が”人類”への脅威であるとすれば、生殖系列遺伝子操作などは”人間”への脅威といってよいのではないでしょうか。

そして、両者の周りをしきりに、ある時は我が物顔に、ある時は素知らぬ顔で徘徊しているのが、ニヒリズムなのであります。

価値観を欠く科学技術というものは、コントロールが効かず、人間社会を根底から脅かす凶器と化しかねません。

その肥大化が、ポイント・オブ・ノー・リターン(引き返し不能な点)が憂慮されるほど急速に進んでいる現在、マルティンハイデッガーの技術論ー不気味なのは技術化そのものより、それに対する我々の側の備えができていないこと、とする技術論に注目が集まるのも当然の成り行きだと思います。



価値感情の欠乏がもたらすもの

価値観の「空位」といえば、かつてシモーヌ・ヴェーユは「二十世紀前半の本質的な特性は、価値の概念の稀薄化、いやほとんどその消失」であるとして、次のように述べています。

「数年前ヴァレリーが指摘したように、とくに善に関係する言葉が、堕落してしまっています。徳、高貴さ、名誉、誠実さ、寛大さといった言葉は、ほとんど□に出せないものになるか、あるいは偽似的な意味をもってしまいました。言葉はもう人間の特性を正当に讃えるためには何の手段をも提供しません」(『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅱ』橋本一明ほか訳、春秋社)と。

ヴェーユは、これを「価値観感情欠乏症」と名付けましたが、昨年1月の提言で触れたガブリエル・マルセルといい、優れた思想家の洞察は”長生き”するものです。

ヴェーユの言葉をタイムスリップさせて、今日の世相に当てはめても、まったく違和感がない。否、病はより「膏盲」に入っているかもしれない。病理の集約的な現れともいうべき戦争のかたち一つ取り上げてみても、大量破壊兵器といいテロといい、現代戦争を特徴づけるのは”無差別性”です。

そして”無差別性”は、個々の人格にかかわらざるを得ない善悪の価値感情を拒絶しているからです。



創価」の運動に寄せられた期待

創価」とはいうまでもなく価値創造の謂であります。

それは、ニヒリズム、価値空位時代に楔を打ち込み、近代文明の暴走に対して、ハンドルやブレーキの機能を回復させる人類史的挑戦であるというのが、私どもの深く期するところであります。

凍てついたニヒリズムの大地をたたき破り、息も絶え絶えの「善の価値」「善の言葉」を掘り起こし、”崩し”(悪)に染まるな、”鍛え”(善)に生きよと、人間精神を蘇生させゆく、地道にして確たる民衆覚醒運動なのであります。

それはまた、私がライフ・ワーク『人間革命』のテーマに据えた、「一人」の宿命転換を「人類」の宿命転換へと運動させゆく、価値観の大転換運動にほかなりません。

うれしいことに、こうした創価の運動の本質を理解し、共感と励ましのエールが、私たちの機関紙・誌に数多く寄せられています。

いわく「時代の風潮に少しも流されることなく、確かな哲学、理念を基調とした聖教新聞の論調こそ、今の時代に最も求められるものです」、

いわく「聖教新聞は世の中を元気にし、幸せにしてきました。日本が一番大事にしなければならない平和・文化・教育という視点を貫いてきたことが読者の支持を得ている理由でしょう」、いわく「世界が今必要とする”励まし”を贈る新聞です」、いわく「トルストイゲーテユゴーなどは、人類精神史における”巨人”です。

活字文化の衰退が憂慮されている今の時代に、これらの”巨人の言葉”が頻繁に登場するメディアは、聖教新聞くらいでしょう」等々、ペシミズム、ニヒリズムの瀰漫する昨今の閉塞状況を突破しゆくパイオニアとしての期待を寄せてくださっております。

私の友人で、一昨年亡くなった作家のチンギス・アイトマートフ氏は、優れた文人ならではのセンスでこの点を捉えておられました。

ゴルバチョフ大統領の側近として、ペレストロイカの生き証人であった氏は、旧ソ連時代は、権力による”検閲”に苦しんだが、ソ連崩壊後は”商業主義”という一層手強い”検閲”が現れた二とを憂慮し、一つのエピソードを語りました。

-若いジャーナリストが、全財産をはたいて良質の新聞を発刊。悪戦苦闘の結果、10号で廃刊。その時、彼は、友人に言われたそうです。

「君の新聞には、ゴシップ記事もなければ、面白く仕立てた、うわさ話もない。-殺人事件もないじゃないか。だれが、そんな新聞を買うと思う?」と。

アイトマートフ氏は続けました。「その反対が、 創価学会の機関紙『聖教新聞』です。

同じように、ゴシップ記事も、捏造も何もない。きわめて高い文化的な内容です。なのに、ずうっと発刊され続け、何百万という方々が読んでいる。これは、大変なことです」と。