【第26回】 生命尊厳の故郷 広島 2010-8-6

平和ほど幸福なものはない 「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」
 
 池田名誉会長が、この書き出しから、小説『新・人間革命』を開始したのは、平成5年(1993年)の8月6日であった。
 「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです」
 「命宝」の章に、名誉会長が青年と語る場面がある。昭和50年(75年)の11月8日。平和記念公園原爆死没者慰霊碑に、祈りを捧げた時のことである。
 前年の5月から、中国へ3度、ソ連へ2度、足を運んだ。この年1月には、SGIを発足。ニューヨークの国連本部で、青年部が結集した1000万の核廃絶署名をワルトハイム事務総長に手渡した。
 まさに「闘争」だった。恩師の原水爆禁止宣言を現実にするため、日中・日ソに、中ソに、世界中に「対話の橋」を架けてきた。
 広島でも闘った。「友を励ます」闘いを、名誉会長は厳しく自身に課していた。
 核兵器全廃の提言を行った本部総会(9日)をはじめ、連日の重要行事の合間にも、広島未来会や少年少女部の合唱団、功労の友、海外の代表を激励。広島会館(現・広島西会館)では、「いつもお世話になります」と近隣を挨拶に訪ねている。友が喜ぶならと、ピアノ演奏も披露した。
 11日には呉を初訪問し、3度、勤行会を開いた。
 「ここにいらっしゃる皆さんは、全員が、いつまでも明るく、若々しく、百歳以上、生きてくださいね」
 「私は、皆さんを守るために、全力で戦います!」
 励ましは、帰りの車中からも続いた。道々に立って見送る友を、真っ先に「うちの人だよ」と発見するのは名誉会長だった。
 
 広島では昭和60年(85年)と平成7年(95年)の2度、世界青年平和文化祭が開かれている。
 平成7年10月14日。2度目の文化祭の前日。松元武子さん、常子さん母娘は、偶然、広島市の中央公園を歩く名誉会長に出会った。
 娘の常子さんは1歳で脳性まひに。信心を続け、同志に激励され、少しずつ、体が動くようになる。昭和60年の文化祭に、合唱団として出演できるまでになった。あすは2度目の合唱の晴れ舞台である。
 常子さんはドキドキしながら叫んだ。「先生! あすの文化祭に参加します」
 母の武子さんは「信心のおかげで、娘はこんなに元気になりました」。
 「よかったね!」と、師匠はにっこりうなずいた。
 翌日、名誉会長は「この中に、きのう出会った女子部もいるんだね」と語り、青年の熱演の一つ一つを見守っていた。
 名誉会長の広島来訪は27度。「昭和47年7月豪雨」の被災者を励ました、福山での記念撮影。江田島での研修。太田川の畔や、原爆ドームを望む相生橋にも立った。
 どこにいても、歩く時も車からも、励ましを贈り続けた。広島の国土に題目を送り、幸福を念じてきた。
 「お題目を染みこませてきたよ」
 「平和を祈ってきたよ」
 そうした名誉会長の振る舞いを、車両役員の中心者だった西岡和彦さん(副総広島長)はよく覚えている。「これほどまでに広島を思ってくださるのか」と今も胸を熱くする。
 一番苦しんだところが、一番、幸せになる権利がある。いな、使命がある!
 それが被爆65年を迎えた広島の、永遠に果たしゆくべき師匠との誓いである。