【第39回】 民衆の凱歌轟く 福井  2010-11-6

希望ある限り道は開ける!
 
 「皆さまは見事に勝ちました!」
 池田名誉会長の力強い勝利宣言だった。
 平成2年(1990年)10月22日、福井文化会館での日本海3県(福井・石川・富山)合同総会。宗門の迫害を越えて、創価の師弟城を守りゆく同志の決意がみなぎった。
 大きな転機は、その9年前。名誉会長が武生文化会館(現・越前市)を訪問したことだった。昭和56年(81年)11月24日である。
 到着の午後2時半ころ、雲間から、幾筋もの光が差し込んできた。越前富士に、七色の虹が架かった。
 友の心も、一気に晴れわたるかのようだった。
 福井は、第1次宗門事件の嵐が最も激しかった地の一つ。古くから「仏教王国」と言われ、旧習根強いこの地で、昭和51年半ばころから、衣の権威を笠に、悪侶の狂刃が同志に襲いかかってきた。ぐっと拳を握り、耐える日々が続いた。
 そんな折の昭和54年(79年)9月22日深夜、森岡正昭さん(当時・県青年部長)宅の電話が鳴った。
 「福井のことが心配で電話したんだよ」。受話器から、懐かしい名誉会長の声が聞こえてきた。
 「福井の皆さんも悔しいだろう。しかし、こんなことが、いつまでも続くわけがない」「仏法は勝負だ。正義は必ず勝つ! 10年後には、はっきりするよ」
 小杉喜彦さん(当時・県長)のもとには、一通の封書が届いた。
 封を切ると、名誉会長の力強い筆致が目に飛び込んできた。同年11月14日に記されたものである。
 ――第一にも、第二にも信心第一、そして団結第一の座標を根本に、会員全員をわが子の如く、兄弟姉妹の如く慈しみ、親にも勝る大指導者に――
 
 ――毎日、私は題目を送ります――
 会長辞任から半年。行動の自由は奪われても、声は届く。書くことはできる。何としても福井の友を励ましたい、との心であった。
 
 武生文化会館に到着した名誉会長は、会合開始までの間、一室に陣取った。
 机一面に並べられた書籍を前に、腕をまくった。
 挙げられた名前が、次々と本に揮毫されていく。
 「まだいないか?」
 「ほかには?」
 「陰で頑張っている人は!」「拠点を提供してくれている人は!」「山間の地で頑張っている人は!」
 烈々たる気迫。名前を挙げるほうが追いつかない。
 「すぐに差し上げなさい!」。書籍は、即座に同志のもとへ届けられた。
 この日から、福井の反転攻勢は加速する。平成2年に再び名誉会長を迎えた時、堂々たる大関西の北の砦が出来上がっていた。
 失った広布の陣容を取り戻し、むしろ拡大。聖教新聞の拡大も日本一。
 10年後には、はっきりするよ――あの師の言葉の通りになった。
 日本海3県の合同総会で名誉会長は、アレクサンダー大王の物語を紹介した。
 東征に赴く大王は、すべての財宝を部下に分け与える。「王はいったい、何をもって出発するのですか」
 そう聞かれた大王は、こう宣言するのである。
 「ただ一つ、希望という宝を持てるのみ」――と。
 名誉会長は呼びかけた。
 「いのちある限り、希望はあり、希望ある限り、道は開けるのです!」
 その声を聞く福井の同志は思った。池田先生こそ、われらの希望と。
 「先生とともに」「先生のために」。そう思えば、不屈の勇気が湧いてくる。