【第6回1】 生命の歓喜の目覚め<上> 2010年 11月27日

ショーター氏 創造とは自己流から一流への挑戦
 
ハービー・ハンコック 池田先生、小説『人間革命』と『新・人間革命』の連載六千回、誠におめでとうございます! 毎日毎日、全世界の友の心に、惜しみなく希望と勇気のメッセージを発信してくださり、いくら感謝してもし尽くせません。
 
ウェイン・ショーター 世界の同志と共に、深く感謝申し上げます。
本当にありがとうございます!
実は、私も、青年時代から『人間革命』のタイトルを心に留めておりました。かつて、入会する前のことですが、日本へ演奏で行った際、ホテルの書架で、最初に目に入った本が『ザ・ヒューマン・レボリューション』(『人間革命』の英語版)だったのです。
その時は必要に迫られて、隣にあった「漢字の書き方」の本を手にとったのですが(笑い)、『人間革命』というタイトルは、なぜか深く記憶に残りました。とても鮮烈で印象に残るものがありました。
 
池田SGI会長 仏法の哲理に基づく「人間革命」を提唱されたのは、私の恩師・戸田城聖先生です。戸田先生は軍国主義と戦い、二年間、投獄されました。その大難を勝ち越えて「人間革命」の哲学を確立されたのです。
歴史上、青年を犠牲にし、民衆を失望させた革命が、あまりにも多かった。そうではなく、一人一人が自他共に生命の尊厳に目覚め、万人が幸福勝利の劇を飾っていけるのが、「人間革命」です。
今、「人間革命」が、二十一世紀の世界の確かな思潮となってきたことは、弟子として、この上ない喜びです。
お二人をはじめ、「スーパーサウンズ」の皆さんが、ニューヨークで「人間革命の歌」をジャズの極致の編曲で演奏してくださったことも懐かしい(一九九六年六月、世界青年平和文化祭)。
芸術も人生も、一日また一日、生まれ変わった生命の息吹で、新たな創造を成し遂げていく。これが「人間革命」です。
 
ショーター 一般に我々男性は、三十代で自分の型にはまりがちだといわれます(笑い)。傲慢や不遜ゆえに、他人の言うことを真摯に受け入れられないのです。特に、生き方や人生観が異なる場合は、なおさらです。そうした頑固な考え方により、自己流の生き方から抜け出せなくなるのです。
でも、私は四十歳になる直前に、この仏法について多くのことを学び始めました。ギリシャ神話のプロメテウスが鎖につながれたように、知らぬ間に、巧妙で、目には見えない、さまざまな束縛の鎖につながれている自分に気づきました。そして自分の心を開き、「人間革命」への挑戦を開始したのです。 
 
池田 三十代、四十代で成長が止まってしまうかどうか。大きな分岐点です。そうした時に自分自身の人生をさらに加速し、いよいよ上昇させていける力が、この信心なのです。
日蓮大聖人は、門下一同に、「権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え」(御書177ページ)と教えられました。「人間革命」を勝ち開く宝剣は、恐れなき勇気です。鎖を断ち切る勇気です。
ところで今年は、ポーランドが生んだ「ピアノの詩人」ショパンの生誕二百周年にあたります。試練に苦しむ祖国の民衆のために、音楽を武器として戦った文化の英雄です。今、日本各地で反響を広げている「ポーランドの至宝」展(東京富士美術館の企画・協力)でも、ショパンの直筆文書などが展示されています。このショパンが、ピアノの才能を発揮し始めたのは、六、七歳のころ。ハンコックさんがピアノのレッスンを受け始めたのも、同じ年代でしたね。
 
ハンコック 七歳の誕生日に母よりピアノをプレゼントしてもらってから、数カ月後だったと記憶しています。
この一九四七年は、池田先生が、十九歳で仏法に巡り合われて、信仰を始められた年でしたね。
兄と姉と私で、三人揃ってピアノのレッスンを受け始めました。兄と姉は数年後にやめ、私だけがレッスンを続けました。楽器の選択においては、私がピアノを選んだというより、ピアノが私を選んでくれたといったほうがいいかもしれません(笑い)。
私が弾き続けた大きな動機――それは、ピアノ演奏なら兄にもひけをとらなかったからです。私は、兄姉や彼らの友人たちよりも上手に演奏できるとは思いませんでしたが、演奏の上達のためには、誰よりも熱心に取り組もうと思いました。
 
ショーター 小さい時は、ピアノより、外で他の子どもたちと遊びたいと思ったことはなかったかい?
 
ハンコック もちろん、あったよ(笑い)。一時期、ずるをして、練習をさぼったこともありました。それで、とうとう母が「ハービー、いいですか。レッスンが嫌なら、もうやめさせますよ。続けたいのなら、しっかり練習に励みなさい。すべてはあなた次第ですよ」と言ったのです。私は練習したくなかったので、母に「いいよ、やめさせたって」と答えました。母は「わかりました」と、レッスンをやめさせました。
でも一年ほどたった時、私はたまらず「ピアノをもう一度習わせて! しっかり練習するから」と頼みました。レッスンのない日々が、さびしくてならなかったのです。母は、もう一度チャンスを与えてくれ、レッスンを受けられるようになったのです。私は自身を調律して(笑い)、すっかり態度を改めたのです。
 
人生は人間革命するためにある
ハンコック氏 音楽は人格 音から心が聴こえる
 
池田 ハンコックさんの「学びたい」「上達したい」という自発の力が目覚めていくように、忍耐強く流れを作ってくれたのですね。ハンコックさんも、ショーターさんも、偉大な人間教育の母に育まれました。
 
ハンコック ええ。母が私に受けさせてくれたのは、クラシック音楽のレッスンでした。
そこでは最初に、身体を痛めないよう、また、力強く、より正確に指を使えるよう、ピアノに対する正しい座り方、正しい両手の置き方などを教えられました。年齢につれて背中とか首、指とか腕に問題を抱える音楽家もいますが、私は、少年時代に受けた基本的な指導のおかげで、そうした問題で悩んだことは一度もありません。
また、クラシック音楽の基礎によって、私は楽曲中の緊張感の高まりと緩和や、音楽を彩る多くの重要な特性についての感覚を培うことができました。これは、今なお学び続けている事柄です。
母は正しかったですね。母が、私にクラシック音楽の教育を受けさせる決断をしてくれたおかげで、実に多くのものを得ることができたと思います。
 
池田 「母に感謝する心」と「基本を大切にする心」は、人間が大きく羽ばたくための二つの翼といってよいでしょう。 
両親の愛情や兄姉の励ましに包まれて、ハンコックさんが早くから才能を開花させ、十一歳で「シカゴ交響楽団」と共演したことも有名です。
 
ハンコック 当時、シカゴには「若者のコンサートシリーズ」という演奏会がありました。楽器ごとのそれぞれのオーディションの入賞者に、「シカゴ交響楽団」と一緒に演奏するチャンスが与えられたのです。
このコンテストに入賞したわけですが、交響楽団との演奏の当日は、とても緊張しました。シカゴの「オーケストラ・ホール」(「シカゴ・シンフォニーセンター」)という大舞台で演奏するのですから。まだ背の低い、小さな少年だった私は、足がピアノのペダルに届くのがやっとでした(笑い)。演奏した曲目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第二十六番「戴冠式」の第一楽章でした。
 
池田 モーツァルトといえば、民音音楽博物館には、ハンコックさんに寄贈していただいたピアノとともに、モーツァルトが愛用した古典ピアノと同型の「アントン・ワルター」も展示されています。私が親しく語り合ったブラジルの大詩人であり、人権の闘士でもあるチアゴ・デ・メロ氏も、自らを奮い立たせる時は、モーツァルトを聴かれるそうです。
そのモーツァルトが、煌びやかな技巧にのみこだわる音楽家を「一介の機械にすぎない」と厳しく断じたことはよく知られる逸話です(吉田秀和著『モーツァルトの手紙』講談社)。
確かに同じ楽器、同じ曲でも、演奏者のいかなる魂の響きが込められているか。それが、技巧を超えて、感動を伝える不思議な力になりますね。
 
ハンコック おっしゃる通りです。
サックス奏者についても、ただ楽器を演奏していて、私たちが、ただそれを聞いている場合も少なくありません。ウェイン・ショーターがサックスを演奏する時は、私たちは、サックスを聴いているのではありません。ウェインその人を聴いているのです。サックスは、あくまでもウェインその人を聴く媒体となります。それは、単に演奏されたサックスの音を聴くのとは、まったく違うのです。演奏者が楽器を超越する時、その楽器は演奏者自身の声を発するのです。
 
ショーター ありがとう! サックスの発明者アドルフ・サックスは言いました。「私が発明したこのサックスは、人間の声、バイオリンの音、金管楽器木管楽器がすべて溶け合い、複合的な音を出すのです。この新しい楽器には、いわばオーケストラのすべての音が盛り込まれているのです」と。
サックスは、単に人間の声を真似ただけでなく、さまざまな音を複合的に出します。吹奏楽器の音色はとても複雑で、多面的です。それは、未来のメッセージを運んでくるかのような音色です。
サックスは、ある種の神秘的な意味で私の友人です。演奏する時、私は、サックスと溶け合い、一体化しています。これは、人間が人と知り合い、友人として溶け合うことと、よく似ています。