小説「新・人間革命」厚田 14  20 12年6月30日

戸田講堂の開館を記念する勤行会は、山本伸一の詩を歌にした「厚田村」の大合唱で幕を閉じた。
引き続き伸一は、講堂の前で、北海道の広宣流布に尽力してきた功労者らと記念のカメラに納まり、墓地公園内の管理センター前広場で行われた祝賀の集いに出席した。
彼は、墓園の関係者らに声をかけ、握手を交わしながら歓談した。
墓地公園の所長である伊藤順次が、目を潤ませながら伸一に語った。
厚田村に、こんなに立派な墓地公園ができるなんて、夢のようです。二十年ほど前には、想像することもできませんでした」
伸一は、包み込むような笑みを浮かべた。
「厚田が、ここまで立派になったのは、あなたの奮闘の賜物です。ありがとう!」
伊藤の目から、大粒の涙があふれた。
彼は、一九五四年(昭和二十九年)夏の入会である。小樽で、妻のサダ子と共に美容院を営み、地域に信頼の輪を広げながら、北海道広布を担ってきた壮年であった。
入会七カ月後の五五年(同三十年)三月十一日、身延の日蓮宗と教えの正邪を決する「小樽問答」が行われた。
これは、日蓮宗日蓮正宗の法論となるはずであったが、結局は逃げ腰の宗門に代わって、学会の代表が法論することになったのである。
伊藤は小樽班の庶務係として、その運営に携わった。
身延の日蓮宗側は、僧籍をもつ大学教授らが法論の登壇者である。一方、学会側の登壇者は、僧でもなければ、仏教学者でもない。
伊藤は?本当に法論で勝てるのか?と、開始直前まで不安を拭えずにいた。
そんな伊藤を見て、司会者の伸一は、確信に満ちあふれた声で、きっぱりと言った。
「大丈夫です。必ず勝ちます!」
学会は、日蓮大聖人の正法正義を守り抜いてきた。
また、身延の信徒の多くが、折伏によって、その誤りを打ち破られ、学会に入会している。
それゆえに、伸一は大確信をもって答えたのだ。真実こそ、確信の母である。